HISTORICAL PERSON · 1076年没

スヴャトスラウ2世

リューリク朝のルーシ系公。クマン人を撃退して名声を高め、兄イジャスラフ1世からキエフ大公位を奪った。『スヴャトスラウ選集』の編纂でも知られる。

生涯
1076年没
死亡地
ウクライナ(キーウ)
出生地
ウクライナ(キーウ)
出典
世界地図
ウクライナ(キーウ)

伝記

スヴャトスラウ2世は、1027年にキエフ大公ヤロスラウ賢公と、スウェーデン王オーロフの娘インゲゲルドの子として生まれた。ヴォロディーミル聖公の孫に当たり、リューリク家の一員である。父の存命中からヴォルィーニ地方のウラジーミルを治め、その就任は1040年ごろと考えられている。父が死の前に重い病にかかったころも、ウラジーミルに滞在していた。

1054年2月20日に父が死ぬと、遺言によってチェルニーヒウを継いだ。キエフを得た兄イジャスラフ、ペレヤスラヴリを得た弟フセヴォロドとともに、ルーシを共同で統治する三頭政治を行った。自身の領域にはリャザン、ムーロム、トムタラカニも含まれた。イジャスラフはノヴゴロドとトゥーロフも得て、フセヴォロドはロストフ、スーズダリ、ベロオーゼロなども領有した。父は弟たちに対し、兄イジャスラフに従うよう命じていた。三兄弟は協力を続け、1059年には父が長く投獄していた叔父スディスラフを解放した。1060年には、騎兵と船団でトルク族、すなわちオグズ系の遊牧民に対する遠征を行った。トルク族はルーシ軍の接近を知ると、抵抗することなくその土地から退いた。1061年にはクマン人が防塁を突破し、迎撃したフセヴォロドの軍を破ったとされる。

1065年、甥のロスチスラフに対して出兵した。ロスチスラフは前年、スヴャトスラウの息子グレプをトムタラカニから追い出していた。叔父の軍勢が到着するとロスチスラフはいったん引いたが、スヴャトスラウがチェルニーヒウへ戻ると、再び同地を占拠した。また、ポロツク公フセスラフがプスコフを攻め、続いてイジャスラフの息子ムスチスラフが治めるノヴゴロドを奪って略奪すると、三兄弟は軍を合わせて対抗した。1066年3月3日、ミンスク近くのネミガ川でフセスラフの軍を破った。逃れたフセスラフは交渉に応じたものの、六月初めにオルシャで行われた会見の場で三兄弟に捕らえられた。

1068年、クマン人がルーシ南部へ侵入した。三兄弟は共同で迎え撃ったが、アルタ川で敗北した。スヴャトスラウはチェルニーヒウへ退いて兵を再編し、11月1日、スノウシクで自軍を上回るクマン軍を破った。この勝利によって住民の間で威信を高めた。一方、キエフでは住民がイジャスラフを追放しており、その不在を利用して、スヴャトスラウは息子グレプをノヴゴロドの統治に送り込んだ。イジャスラフがポーランドの援軍を率いて帰還すると、キエフの住民はスヴャトスラウとフセヴォロドに都の防衛を求めた。二人は兄に、ポーランド軍を伴ってキエフを攻撃しないよう申し入れた。イジャスラフはポーランド兵を入城させなかったが、配下の者たちはキエフの反対者の多くを殺害し、あるいは身体を傷つけた。

共同統治はやがて崩れた。1073年、スヴャトスラウは弟フセヴォロドの支援を受けて兄イジャスラフから大公位を奪い、キエフ大公となった。その治世には神学的な著述を集めた選集の編纂を命じ、1073年と1076年の『スヴャトスラウ選集』が作られた。1076年12月27日、癤の手術が失敗して死去し、チェルニーヒウの救世主大聖堂に葬られた。息子ダヴィドとオレグはそれぞれ一族の系統の祖となり、その両系統は十二世紀にチェルニーヒウの公を出した。

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