伝記
ピョートル・アルカージエヴィチ・ストルイピンは、1862年4月14日(ユリウス暦4月2日)に生まれ、1911年9月18日(ユリウス暦9月5日)に没した帝政ロシアの政治家である。ニコライ2世のもとで大臣会議議長(首相、在任1906年から1911年)を務め、ヴィッテと並んで有能な政治家と評された。革命派には容赦のない弾圧を行い、一方では農業を中心に地方自治の近代化や司法・中央行政の改革を進めた。ロシアの名門貴族の家に生まれ、ドレスデンで生まれたとする資料があり、父は軍人で外交官でもあり、中将となって皇帝アレクサンドル2世の副官を務めた。母は公爵ゴルチャコフの娘であった。詩人レールモントフは、父方の親族にあたる。三人兄弟の二番目で、青年期の病気のために右腕が一部麻痺し、父と同じ軍人の道には進めなかった。
サンクトペテルブルク大学の自然科学部(物理・数学部)に学び、タバコ栽培の研究で学位を得た。22歳になる前、亡くなった兄の婚約者だったオリガ・ネイドガルトと結婚し、幸せな結婚生活のなかで一男五女をもうけた。1884年にロシア帝国内務省に入って官僚として勤め、1902年にグロドノ県知事、1903年にサラトフ県知事を務めた。卓越した行政手腕と、サラトフでの革命運動の弾圧ぶりが政府に注目された。1906年4月、ゴレムイキン首相のもとで内務大臣となり、第一国会の運営に辣腕を振るった。同年7月21日に首相となった。当時のロシアは社会不安が増して、革命思想が広がり、多くの政治家や官僚が暗殺されていた。
首相就任の翌日、第一国会を解散した。1907年の第二国会選挙では左派政党が躍進し、国会が革命派の色合いを強めると、6月3日に社会民主労働党の議員を逮捕して国会を解散に追い込み、同時に選挙法の改正を出して、第一次ロシア革命を終わらせた。これを「6月3日のクーデター」と呼ぶ。革命運動の弾圧では戒厳令を施行し、軍事法廷を導入した。死刑を宣告された者は即日処刑され、多くの人が絞首刑に処され、絞首台は「ストルイピンのネクタイ」と皮肉を込めて呼ばれた。「まずは平静を、しかる後改革を」を基本方針とし、ツァーリズムの体制内で、農業改革を主軸に、言論・出版・結社・集会の自由の拡大、ゼムストヴォの強化、地方自治の近代化などを含む広範な改革を掲げた。農民が農村共同体ミールから自由に脱退して、個人の土地所有を確かなものとできるようにし、個人農を創設して、自作農クラークが体制を支持する層となることを期待した。しかし共同体の解体を嫌う農民を中心に反対が起こり、国会や皇帝の支持も失った。
1911年9月14日(ユリウス暦9月1日)、皇帝の行幸に同行したキエフで、オペラ「サルタン皇帝」を観劇中に、アナーキストで警察のスパイでもあったボグロフに撃たれ、4日後に49歳で死去した。ボグロフは軍事法廷にかけられ、9月24日に絞首刑となった。ストルイピンの死によって改革は頓挫した。ソ連崩壊後は再検証が進み、ロシアでは帝政最後の改革者として高く評価されている。日本の勲一等旭日桐花大綬章も受けており、日露戦争の始まりを批判的にとらえていたという。
同じ年に亡くなった人物
- アルフレッド・ビネー (1911年没)
- ドミトリー・ポグロフ (1911年没)
- グリゴリー・ミャソエドフ (1911年没)
- エドワード・ウィンパー (1911年没)
- ウォレス・ワトルズ (1911年没)
同じ地域に関係する人物
- アスコルド (882年没)
- ヘンナディー・ウドベンコ (2013年没)
- イヴァン・カヴァレリゼ (1978年没)
- オレグ・ヴェリキー (2010年没)
- ミハイル2世 (キエフ大公) (1246年没)