伝記
コンスタンティノープル総主教ヨハネス8世は、1010年頃にトレビゾンドのクシフィリノス家に生まれた東ローマ帝国の法学者、聖職者である。もとの名はヨハネス・クシフィリノスで、歴史家として知られる同名のヨハネス・クシフィリノスの叔父に当たる。1030年頃に学問のためコンスタンティノープルへ来て、大学で学んだ。ここで自分より数歳若いミカエル・プセルロスと親交を結び、ともにコンスタンティノス9世の治世に地位を得た知識人の一員となった。
初めはヒッポドロームと呼ばれる法廷の裁判官や、後見に関する司法職を務めた。1045年、帝国に裁判官を送り出すため大学の法学部が設けられると、新設のノモフュラクスに任じられた。この職により法学教育の長となり、帝国の元老院にも加わった。法律の研究を導くとともに、法学を探究する方法の革新者と評されるようになった。しかし1054年、友人プセルロスとともに失脚した。二人はビテュニアのオリュンポス山の修道院へ退き、修道士となった。ヨハネスはそこで九年間を過ごした。
1064年、隠遁生活を離れ、皇帝コンスタンティノス10世ドゥーカスの選任により、コンスタンティノス3世リクデスの後を継いで総主教となった。コンスタンティノス10世の死後には、皇后エウドキア・マクレンボリティッサの再婚をめぐる問題に関わった。皇后は再婚しないと誓っていたが、ヨハネスの兄弟を夫に迎えるかのように示唆し、誓約を解いてもらったという。ところが実際にはロマノス・ディオゲネスを結婚相手に選び、皇帝として戴冠させた。
1072年には聖アレクシオスの礼拝堂で、府主教と大主教の会合を主宰した。議題は空席の司教座への選挙である。以前の総主教ミカエルは、コンスタンティノープルに滞在している府主教が、その選挙に参加することを禁じていた。ヨハネスは、教会の用務や病気のため、首都に長く留まらねばならない場合もあることを認めた。会合はその同意を得て、あらかじめ総主教に意向を知らせた府主教であれば、首都に滞在したままでも投票できると決めた。法学者としての経歴を持つ総主教が、教会の選任手続を扱った出来事である。
著述では、友人プセルロスの新プラトン主義を批判する哲学論文を書いたが、これらは失われた。婚姻法に関わるものをはじめ、法的な決定の一部は残り、のちにギリシア・ローマ法の集成に収められた。法典『バシリカ』への注釈の一部も、その手による可能性がある。聖人伝では、故郷トレビゾンドの殉教者エウゲニオスの生涯を著した。1075年8月2日に没し、アンゴウリオン修道院に葬られた。東方正教会では聖人とされ、8月30日を記念日としている。
同じ年に亡くなった人物
- アンノ2世 (1075年没)
- Richeza of Poland, Queen of Hungary (1075年没)
- カーイム (1075年没)
- オットカール1世 (シュタイアーマルク辺境伯) (1075年没)
- エディス・オブ・ウェセックス (1075年没)
同じ地域に関係する人物
- Patriarch Joannicius III of Constantinople (1793年没)
- ヘラクレイオス (641年没)
- オフリドのクリメント (916年没)
- ハリメ・スルタン (1623年没)
- アレクシオス4世アンゲロス (1204年没)