伝記
カーイムは、1001年11月8日に生まれたアッバース朝の第26代カリフである。父は先代のカーディル、母はアルメニア系またはギリシア系とされるカトル・ナダーで、アラムの名でも知られた。初めは兄ムハンマドが後継者とされたが、父に先立って死去した。兄は1001年に、わずか九歳で後継者として公に指名されていた。1030年、カーディルはブワイフ朝のアミールから独立した判断で、アブー・ジャアファルという名のこの息子を後継者に定めた。父は1031年11月29日に病没し、カーイムは12月12日に忠誠の誓いを受けた。即位したカリフは学識があり、温厚な人柄とされたが、使える資力は限られ、バグダードにはブワイフ朝の支配が及んでいた。
治世の前半、首都では混乱が絶えず、ブワイフ朝の支配者が市を逃れることもあった。カーイムは一定の権威を回復し、ジャラール・ダウラとアブー・カリジャールの対立で仲裁する立場にあった。1032年には法学者マーワルディーをアブー・カリジャールとの秘密の交渉に派遣し、授ける称号を制限しようとした。東方でセルジューク朝の勢力が伸びると、初代君主トゥグリル・ベグはカリフに忠誠を誓った。スンナ派の支配者として、シーア派のブワイフ朝からカリフを救うという名分を得たのである。1055年、カーイムの招きを受けたトゥグリルはバグダードに入り、ブワイフ朝の勢力を排した。カーイムは正式にスルタンの称号を認め、その名を金曜礼拝の説教で唱え、貨幣にも刻むよう命じた。1056年にはトゥグリルの兄弟チャグリー・ベグの娘ハディージャ・アルスラン・ハトゥンと結婚し、両家の関係を結んだ。
しかしセルジューク朝の保護が直ちに安定をもたらしたわけではない。1058年、トゥグリルがイランで兄弟の反乱に対処する間に、トルコ系の将軍バサーシーリーが蜂起し、バグダードを占領した。カーイムは初め市内に残ったが、後にバサーシーリーの命令でアーナへ移され、一年ほど人質となった。その身柄はトゥグリルとの交渉の材料に使われた。トゥグリルはバサーシーリーとの交渉を迂回し、カリフを監視していたアミールに直接働きかけて解放を実現した。バサーシーリーの死と反乱の終結後、セルジューク朝がカリフの上に立つ唯一の大勢力となった。宗教上はカーイムに近いスンナ派であったが、政治的な優位を占める点では、先のブワイフ朝と共通していた。
1062年、カーイムはファフル・ダウラ・イブン・ジャヒールを宰相に任じ、贈り物や栄誉を与えた。宗派間の争いも続き、1067年にバグダードでシャーフィイー派に属するニザーミーヤ学院が開かれると、ハンバル派との緊張が高まった。カーイムはスルタンに相談せずに行動することをためらい、事態を抑えられなかった。翌1068年には、宰相が許可なく私室に入り、身分を越えた儀礼服を着たことなどを問題として罷免した。宰相は謝罪したものの退去させられ、後任をめぐる競争も激しくなった。ブワイフ朝からセルジューク朝へと支配の担い手が移る時代を生きたカーイムは、1075年4月3日に自然死した。在位は父を上回る44年間に及んだ。
同じ年に亡くなった人物
- イオアンニス8世 (1075年没)
- エディス・オブ・ウェセックス (1075年没)
- アリー・イブン・アフマド・ナサウィー (1075年没)
- エルンスト (オーストリア辺境伯) (1075年没)
- アンノ2世 (1075年没)
同じ地域に関係する人物
- アムル・イブン・アル=ライス (900年代没)
- Bint al-Huda (1980年没)
- Abu Hayyan al-Tawhidi (1023年没)
- ターイー (1003年没)
- ムクタフィー (12世紀) (1160年没)