伝記
リヘザ・オブ・ポーランドは、ポーランド王ミェシュコ2世ランベルトとリヘザ・フォン・ロートリンゲンの娘で、ハンガリー王ベーラ1世の妃となった女性である。1013年9月22日生まれとされ、ピャスト家に属した。母は皇帝オットー2世の孫娘であり、兄弟姉妹にはポーランドの統治者となるカジミェシュ1世とゲルトルダがいた。ただし、本人の名は確実ではない。リヘザという呼び名は母と同じ名を持っていたとする推測に基づき、同時代に確認された名ではない。アデライダであったという説もあり、その場合は母の姉妹で、ニヴェルの女子修道院長を務めた女性にちなむ名であった可能性がある。
結婚相手のベーラはハンガリーの貴族ヴァズルの息子で、兄弟とともに故国を離れ、ボヘミアを経てポーランドに滞在した。ヴァズルはペーテル・オルセオロを王位継承者と認めず、失明させられて死んだとされる。ポーランドでのベーラはポメラニア人との戦いに参加し、ミェシュコ2世に仕えた。リヘザとの結婚はその戦功への報賞であったと伝えられる。婚姻の時期は確定せず、1033年ごろとも1043年ごろともいわれる。また、この婚姻を、カジミェシュ1世とその義兄弟であるルーシのヤロスラフ賢公が、ハンガリーのペーテル王に反対する勢力を支援した政策の一環とみる説もある。ベーラの兄アンドラーシュも、ほぼ同じ時期にヤロスラフの娘と結婚した。
1048年、ベーラは兄アンドラーシュ1世からハンガリーの三分の一を分領として与えられ、リヘザも夫とともにハンガリーへ移った。二人の家族には三人の息子ゲーザ、ラースロー、ランペルトがおり、娘にはゾフィア、ヘレナらがいた。ほかの娘については人数や名が一定しない。やがて兄弟の対立が生じ、1060年、ポーランド軍の支援を得たベーラがアンドラーシュを破った。同年12月6日に夫はハンガリー王として戴冠し、リヘザは王妃となった。
王妃であった時期は夫の在位した1060年から1063年に当たる。1063年にはアンドラーシュの息子シャラモンがドイツの軍勢を伴ってハンガリーに入り、王位を求めた。この争いのさなかにベーラは死去した。リヘザはハンガリー宮廷を去り、故郷へ帰ったとされる。娘ゾフィアはクライン辺境伯ウルリヒ1世と結婚し、その死後、1070年以降にザクセン公マグヌスの妻となった。ヘレナはクロアチア王ドミタル・ズヴォニミルの妃となっている。リヘザの没日は1075年5月21日とされる一方、没年を特定せず、1052年以後に死去したとする見方もある。
同じ年に亡くなった人物
- アンナ・ヤロスラヴナ (1075年没)
- アンノ2世 (1075年没)
- エルンスト (オーストリア辺境伯) (1075年没)
- カーイム (1075年没)
- アリー・イブン・アフマド・ナサウィー (1075年没)
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