伝記
ヘラクレイオスは、575年頃に生まれ、641年2月11日に没した東ローマ帝国中期の皇帝である。在位は610年から641年までで、ヘラクレイオス朝の開祖にあたる。名はギリシア神話の英雄ヘラクレスにちなむ。ササン朝ペルシアとの26年に及ぶ戦いに勝って失った領土を取り戻したが、興隆してきたイスラーム勢力に敗れ、奪い返した土地を再び失った。
アルメニア人貴族の子として生まれた。父は同名で、カッパドキア貴族の出とされ、アルメニアの名族の血筋である。母エピファニアは、ユスティニアヌス1世の妹ウィギランティアの曾孫にあたる。このため、女系ながらユスティニアヌス王朝の5人の皇帝たちと血縁・縁戚の関係にあった。608年、マウリキウスから帝位を簒奪し、暴政を行ったといわれるフォカスに対して、カルタゴ総督だった父が反乱を起こした。610年10月、ヘラクレイオスが艦隊を率いてコンスタンティノポリスへ攻め寄せると、首都はわずか2日で開城し、フォカスは処刑された。彼は10月5日に、総主教によって皇帝に任命された。
即位当時の帝国は、滅亡の危機に瀕していた。アンティオキアの大地震やペストの流行で人口が減り、ユスティニアヌス1世の相次ぐ遠征や建築事業もあって国力が疲れ切っていたのである。これにつけ込んで、ササン朝の王ホスロー2世が、フォカスを倒すという口実で、602年から東ローマ帝国を攻撃していた。613年にはシリアとパレスティナを、次いでエジプトとアナトリアを奪われ、敵軍は首都の間近にまで迫った。エルサレムにあった聖なる十字架も奪われ、帝国の権威は地に落ちた。彼は一度は絶望してカルタゴへの逃亡を図ったが、思い直して自ら軍を立て直し、622年から628年にかけて、ほとんど首都を離れて親征を行った。627年にニネヴェの戦いでササン朝に勝ち、翌628年には自らクテシフォンへ侵攻して勝利を収めた。同年にホスロー2世が暗殺されると、ササン朝では和平派が台頭し、子のカワード2世との和睦によって、領土と聖なる十字架を取り戻した。629年に首都へ凱旋した彼は、従来の皇帝の称号ではなく、「キリスト信者のバシレウス」と名乗り、これがのちに皇帝の称号として定着した。
しかし、そのころアラビア半島ではイスラーム教を信じるアラブ人が勢力を広げ、シリアへ侵攻していた。636年、彼は自ら軍を率いて撃退を図ったが、ヤルムークの戦いで敗れ、シリアとパレスティナを失い、敗戦の衝撃で病に倒れたという。後継者の問題や、単性論をめぐる宗教上の対立に悩みながらも、イスラームに備える防衛線の構築に力を尽くした。これがテマ(軍管区)制の始まりとされるが、起源には諸説がある。620年には、公用語をラテン語からギリシア語へ変えたとされ、10世紀の皇帝コンスタンティノス7世は、これを「父祖の言葉を棄てた」と表現した。
641年2月11日、失意と苦悩のうちに没した。生前から、死後三日間は棺に封をしないよう遺言していたという話が残り、ゼノンの死にまつわる逸話を恐れたためと伝わる。私生活では、610年に地主ロガスの娘ファビア(結婚時にエウドキアと改名)と結婚して1男1女をもうけ、のちに実の姪マルティナと再婚して、少なくとも10人の子をもうけた。この結婚は近親婚と非難された。後継は、先妻の子コンスタンティノス3世と、後妻の子ヘラクロナスの共同統治となったが、同年のうちに前者が急死し、反乱の末に、孫のコンスタンス2世が即位した。
同じ年に亡くなった人物
- 欧陽詢 (641年没)
- Arechis I of Benevento (641年)
- コンスタンティノス3世 (641年没)
- 武王 (百済) (641年没)
- 舒明天皇 (641年没)
同じ地域に関係する人物
- Muzahir Sille (2016年没)
- ナイム・タル (1998年没)
- イブン・ケマル (1536年没)
- ゼノン (東ローマ皇帝) (491年没)
- ヨハネス・ゾナラス (1145年没)