伝記
ドミンゴ・デ・シロスは、荒廃した修道院の再建に携わり、カトリック教会で聖人として崇敬されるようになったスペインのベネディクト会修道士である。1000年、ラ・リオハのカーニャスに農民の家の子として生まれた。父に学校をやめさせられ、家の羊の番をしていたが、4年を経て学業へ戻ったとされる。幼い頃から聖職への志を持ち、のちに司祭となってカーニャスの教会で務めた。さらに厳しい霊的生活を求め、1031年から1033年の間には山中の人里離れた洞窟へ入り、隠修士として暮らした。1033年にその生活を離れてサン・ミジャン・デ・ラ・コゴージャ修道院の修道士となり、やがて修練長、ついで修道院長に次ぐ地位へ進んだ。
ナバラ王ガルシア・サンチェス3世が修道院の土地を取り込もうとすると、ドミンゴはこれに反対した。そのため仲間の修道士2人とともに追放され、レオン王フェルナンド1世の庇護を受けた。1041年、三人はシロスにあるサン・セバスティアン修道院へ逃れた。当時、この修道院は衰え、わずか6人の修道士がいるだけであった。ドミンゴは共同体の院長に任じられ、クリュニーの改革を手本として、建物だけでなく修道生活そのものの立て直しに取り組んだ。ロマネスク様式の回廊を建て、写本を制作する工房も設けた。修道院は書物を作り、学問に取り組む場となっていった。
再建された共同体では慈善も行われ、金銀細工の工房がその活動を支える収益を生んだ。富裕な後援者から寄進が寄せられる一方、ドミンゴ自身も、ムスリム側の捕虜となったキリスト教徒の身代金を集めた。病を癒やす働きで名が知られ、生前から奇跡を行う修道者として崇敬を集めたという。修道院はモサラベの典礼の中心地の一つとなり、古いスペインの西ゴート書体も受け継いだ。ドミンゴは院長職にとどまったまま、1073年12月20日にシロスで死去した。この時には修道士の数は40人に増えていた。墓は修道院の回廊に置かれ、晩年に用いたハシバミ材の杖も修道院に保存された。
1076年1月5日、その遺物は修道院教会へ移された。修道院と町は死後にドミンゴの名で呼ばれるようになり、修道院はサント・ドミンゴ・デ・シロスの名を受け継いだ。1085年にはすでに彼を記念する教会や修道院が現れていた。祝日は命日と同じ12月20日である。
のちに説教者修道会を創設するドミニコの母フアナ・デ・アサは、息子を授かる前にシロスの聖人の祠で祈り、子にその名を付けたと伝えられる。この伝承によって、ドミンゴへの信仰は懐妊や出産とも結びついた。13世紀の司祭で詩人のゴンサロ・デ・ベルセオは、同時代にドミンゴと暮らしたベネディクト会士グリマルドのラテン語の聖人伝などをもとに、その生涯を詩に書いた。シロスの修道院は19世紀にはソレームのベネディクト会修道院連合に属し、二重のロマネスク回廊や充実した図書館、グレゴリオ聖歌の録音でも知られるようになった。1931年にスペイン第二共和政が成立するまで、その院長杖はスペインの王妃を祝福するために使われ、出産の際には寝台のそばに置かれた。囚人、妊婦、羊飼いの守護聖人としても崇敬されている。
同じ年に亡くなった人物
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- キエフのアントニー (1073年没)
- 周敦頤 (1073年没)
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