伝記
ガルシア3世は、11世紀前半から半ばにナバラ王国を治めた国王で、ガルシア・サンチェス3世とも呼ばれ、「ナヘラのガルシア」の異名で知られる。1012年ごろにナヘラで生まれ、在位は1035年から1054年である。アラバ伯を兼ね、カスティーリャ伯領の大部分も支配した。父はナバラ王サンチョ3世、母はムニアドナ・サンチェスである。
サンチョ3世の嫡出の長男であったガルシアは、1035年に父が没するとナバラ王位を継いだ。異母兄のラミロは庶子であり、慣習に従って王位は嫡出子のガルシアに渡ったのである。ラミロは後にアラゴン王国となる領地を受け継ぎ、弟ゴンサロはソブラルベ伯領とリバゴルサ伯領を継いだ。ガルシアはこの兄弟たちの上に立つ上級領主となり、カスティーリャ伯だった弟フェルナンド1世に対する宗主権も主張した。アラバとカスティーリャ伯領の大部分(ラ・ブレバ、トラスミエラ、モンテス・デ・オカ、エンカルテリ、ラス・メリンダデス)も受け継いでいる。これらの土地はタマロンの戦いでの援助の代償としてフェルナンドから与えられたとする説もあるが、戦いの前からガルシアの名が文書の日付に現れていることから、この説は成り立たないとされる。
1037年、弟フェルナンド1世がレオン王ベルムード3世と戦ったとき、ガルシアは援軍として加わった。ピスエルガ川の近くで行われたこのタマロンの戦いで、ベルムード3世は敗れて戦死し、カンタブリア公ペドロに始まる王家は男系が絶えた。その後、フェルナンドはレオン王として戴冠した。1038年にはバルセロナでエステファニアと結婚し、9人の子をもうけた。長男のサンチョ4世は後にナバラ王となり、もう一人の子ラモンはのちに兄サンチョ4世を殺して「兄弟殺し」と呼ばれた。ほかに愛妾との間に2人の庶子もいた。エステファニアはビゴール伯ベルナール=ロジェあるいはバルセロナ伯バランゲー・ラモン1世の末娘と考えられ、結婚の際にガルシアは婚資として、リオハの二つのカメロス地方などを贈ったという。対外的には、1043年にタファリャで兄のアラゴン王ラミロ1世を破り、王国の東の国境を定めた。ラミロとは翌1044年に和解したとされる。1045年には、後ウマイヤ朝の解体後に生まれたイスラム教徒のタイファ諸国が弱まっていた状況を利用してカラオラを占領し、南の国境をその領土の上に押し上げた。これによりエブロ川の中流域を押さえることになり、サラゴサの首長がガルシアの臣下になったと考えられている。
信仰の面では、ガルシアはナヘラにサンタ・マリア・ラ・レアル修道院を建て、1052年12月12日にこれを献堂した。修道院を豊かにしようと、近隣の聖人の遺骸を移そうと試みたが、ビリビオの聖フェリセスの移葬は、墓を開けたアラバの司教が異変に見舞われ嵐が起きたため中止され、1053年のサン・ミリャンの遺骸の移葬も、牛が動かなくなる奇跡によって果たせなかったという。ガルシアはその場所に新たな修道院を建てることを決め、これがサン・ミリャン・デ・ユソ修道院となった。
しかし、カスティーリャの領地の分配をめぐってフェルナンドとの関係は悪化し、兄弟は争った。1054年9月1日、アタプエルカの戦いでガルシアは戦死した。遺体は自らが創建したナヘラのサンタ・マリア・ラ・レアル修道院に葬られた。王位は長男のサンチョ4世が継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- アティーシャ (1054年没)
- 李徳 (1054年没)
- レオ9世 (ローマ教皇) (1054年没)
- ヤロスラフ1世 (1054年没)
- Lambert II, Count of Louvain (1054年没)
同じ地域に関係する人物
- マルゲリータ・ディ・サヴォイア (マントヴァ公妃) (1655年没)
- フィデル・パジェス (1923年没)
- フランシスコ・ヒメネス・デ・シスネロス (1517年没)
- サンチョ3世 (ナバラ王) (1035年没)
- フェリックス・ロドリゲス・デ・ラ・フエンテ (1980年没)