伝記
サンチョ・デ・アルブルケルケは、カスティーリャの王族で、アルブルケルケ伯である。サンチョ・デ・カスティーリャとも呼ばれる。1342年にセビーリャで、カスティーリャ王アルフォンソ11世と愛妾レオノール・デ・グスマンの子として生まれた。王の10人の庶子のうち9番目の子で、兄にエンリケ2世、ファドリケ、テーリョらがいた。父が1350年に亡くなると、嫡子で異母兄のペドロ1世が王位を継いだ。
1366年4月、ペドロ1世と戦っていた兄エンリケは、サンチョをアルブルケルケ伯に任じ、レデスマ、アルバ・デ・リステ、メデジンなどの領主とした。サンチョは兄のエンリケ、ファドリケ、テーリョとともに異母兄ペドロ1世と戦った。ペドロ1世は後に「残酷王」と呼ばれる人物で、貴族たちの不満を招き、サンチョもその貴族たちの反乱に加わった。のちにエンリケがエンリケ2世として王位に就くと、サンチョはその旗手を務めた。
1373年、サンチョはポルトガル王ペドロ1世と愛妾イネス・デ・カストロの娘ベアトリスと結婚した。この縁組は、エンリケ2世がポルトガル王フェルナンド1世に強いたサンタレン条約に関わるもので、残酷王ペドロの支持者のポルトガルからの追放と、イングランドとの同盟の破棄、ポルトガルの6都市のカスティーリャへの割譲が定められ、その保証としてサンチョとベアトリスの婚約が結ばれたという。2人のあいだには、フェルナンド・サンチェスとレオノールの2子が生まれ、レオノールはのちにアラゴン王フェルナンド1世の妃となった。サンチョには、母の分からない庶子の娘レオノール・サンチェスもいた。
1374年2月19日(1375年とも)、ブルゴスで亡くなった。エンリケ2世は、ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントが、ペドロ1世の娘コンスタンサの夫として王位の権利を主張しにスペインへ来ることを恐れ、ブルゴスにできるだけ多くの軍勢を集めさせていた。サンチョも手勢を率いて到着したが、王がミサに出ているあいだ、宿の割り当てをめぐって、サンチョの手勢と、王の子ファン王子の家臣たちとのあいだで争いが起こった。サンチョは騒ぎを静めようと急いで駆けつけたが、あわてるあまり、他人の兜と胴鎧を身につけていた。それが仇となって、ほかの者から彼と気づかれず、争う者の1人に槍で目を突かれ、穂先が脳に達して、まもなく亡くなったという。遺体はブルゴス大聖堂の内陣に葬られ、のちに妻ベアトリスも同じ場所に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- ジャウメ4世 (マヨルカ王) (1375年)
- シャルル3世 (アランソン伯) (1375年没)
- ヨハン・ハインリヒ・フォン・ルクセンブルク (1375年没)
- ヴァルデマー4世 (デンマーク王) (1375年没)
- レオノール・デ・シシリア (1375年没)
同じ地域に関係する人物
- フアン・デ・ガライ (1584年没)
- ベレンゲラ (カスティーリャ女王) (1246年没)
- フェリックス・ロドリゲス・デ・ラ・フエンテ (1980年没)
- フアン・ヤグエ (1952年没)
- フランシスコ・ヒメネス・デ・シスネロス (1517年没)