HISTORICAL PERSON · 紀元前257年没

白起

戦国時代の秦の将軍で、戦国四大名将の一人。伊闕の戦いで24万の首級を挙げ、鄢・郢の戦いで楚都郢を陥落させ、長平の戦いで趙軍を降伏させて秦の領土拡大に貢献したが、昭襄王の命で賜死した。

生涯
紀元前257年没
死亡地
中華人民共和国(陝西省)
出生地
中華人民共和国(眉県)
出典
世界地図
中華人民共和国(陝西省)

伝記

白起は、中国の戦国時代に秦の昭襄王に仕えた将軍である。紀元前332年に生まれ、紀元前257年に没した。郿の人で、姓は羋、氏は白、名は起といい、公孫起とも書かれる。王翦・廉頗・李牧と並ぶ戦国四大名将の一人に数えられ、唐代には武廟十哲の一人に列せられた。各地を転戦して趙・魏・楚などに勝利を重ね、秦の領土拡大と、のちの天下統一の基盤づくりに貢献したが、最後は昭襄王の命により死を賜った。

頭角を現したのは紀元前293年である。魏冄の推挙で向寿に代わって将軍となり、韓・魏・東周の連合軍と伊闕で戦った。倍以上の兵力を相手に勝ち、24万の首級を挙げて総大将の公孫喜を捕らえ、功により国尉に任じられた。紀元前292年に大良造へ昇り、魏を攻めて大小61城を落とした。紀元前279年には楚を攻め、鄢の西に堰を築いて長谷水を引き込み、水攻めにした。楚の軍民数十万人が溺死したという。翌年には楚の都の郢を陥落させ、夷陵の楚王の陵墓を焼いた。竟陵を攻略し、南は洞庭湖まで進んだ。楚は陳に遷都し、白起は武安君に封じられた。紀元前273年には華陽で魏・趙の軍を破り、13万の首級を挙げ、趙将の賈偃の兵2万を黄河に沈めた。

紀元前262年に秦が韓の野王を落とすと、韓は上党を秦に献じようとした。しかし上党守の馮亭は趙に投降し、趙は廉頗を長平に駐屯させて、長平の戦いが始まった。紀元前260年、廉頗の堅守で戦いは膠着していた。秦の相国の范雎は間者を用いて趙の将を廉頗から趙括に代えさせ、秘かに白起を上将軍とした。白起は偽装退却で趙括を誘い出して補給路を断ち、趙兵は46日間食糧を得られなかったという。趙括は突撃して射殺され、趙軍は降伏した。白起は降伏した兵が乱を起こすのを恐れ、詐略を用いて捕虜40万人を坑殺し、年少者240人のみを趙に帰した。趙の戦死者と処刑された者は45万人に達したとされる。

その後、范雎は白起の大功が自分の地位を脅かすと恐れ、紀元前259年に講和を進言した。昭襄王は和議を結んで軍を引いた。白起はのちにそれを知り、范雎との間に溝が生じた。同年9月に昭襄王が再び趙を攻めようとすると、白起は反対したが退けられ、病のため出陣しなかった。翌年、王陵が邯鄲を包囲しても落とせず、白起は病が治って交代を求められても、邯鄲の攻略は容易でないと述べて固辞した。紀元前257年に王齕に代えても邯鄲は落ちず、魏の信陵君と楚の春申君の援軍に秦軍は大敗した。白起が「私の計略を聞かなかったことを今にしてどう思うか」と言うと、昭襄王は怒り、彼を士伍に降格して陰密に流刑とした。咸陽を出て杜郵まで来たとき、白起は不満を抱いているとみなされ、剣を賜って自殺を命じられた。彼は「私はもとより死すべきである。長平で趙の降伏者数十万人を欺いて生き埋めにした。これは死ぬに足りる」と述べて自刎した。

同時代の評も伝わる。蘇代は、白起が攻略した城は70余りに及び、周公・召公・呂望の功績もこれに及ばないと述べた。蔡沢は、楚・趙が秦を攻めなくなったのは白起の威勢によると語った。平原君は、その人となりを決断力があり、意志が揺るがないと見て、持久戦はできるが正面から争うのは困難だと評した。秦の人々は死を憐れみ、各地に廟を建てて祀ったという。司馬遷は『史記』で、敵を見極めて奇策を尽くし、名声は天下を震わせたと評する一方、范雎の患いは逃れられなかったと記した。三国魏の鄧艾は、讒言で殺される前に自らを白起になぞらえたと『三国志』にある。

同じ年に亡くなった人物

該当人物はまだありません。

同じ地域に関係する人物