HISTORICAL PERSON · 紀元前141年没

景帝 (漢)

前漢の第6代皇帝で文帝の子。父の政策を継いで倹約と減税に努め、「文景の治」と称えられた。諸侯王の権力削減を進め、紀元前154年の呉楚七国の乱を周亜夫の活躍で鎮圧して、皇帝権力を強めた。

生涯
紀元前141年没
死亡地
金(陝西省 / 長安)
出生地
中華人民共和国(太原市)
出典
世界地図
金(陝西省)

伝記

景帝は、前漢の第6代皇帝である。紀元前188年に生まれ、紀元前157年から紀元前141年まで在位した。中国の皇帝のなかでも名君とされる一人で、父の文帝と同じく漢の基盤を固める善政を行い、二人の治世は「文景の治」とたたえられた。後漢を興した光武帝と蜀漢を建てた昭烈帝劉備は、ともに景帝の子孫を称した。

文帝がまだ代王だったころ、寵愛した竇氏との間に生まれた。長男であったともいい、五男として生まれたが四人の兄が早世し、生母の竇氏が正室に昇格したことで嫡子になったともいわれる。文帝が即位した翌年の紀元前179年に皇太子となり、その二か月後に母が皇后となった。幼いころは思いやりがあると評されたという。母の竇氏は道家の教えを信じ、子や孫にもその学習を求めたため、深い影響を受けた。皇太子の家にいた鼂錯は、頭の回転と冷徹な実務能力、弁舌で知られ、のちに景帝の信任厚い相談役となった。一方で景帝は享楽的な暮らしを送り、文帝が弟の梁王劉武への交代を考えたこともあったが、多くの官僚が反対して取りやめになったという。皇太子時代には、又従兄弟にあたる呉の世子劉賢と些細なことで口論になり、六博の盤を投げつけて殺してしまった。これで朝廷と呉王の関係は冷え込んだが、文帝の政治的な配慮で事態は収まった。この一件は、のちの呉楚七国の乱の原因の一つになったとされる。

紀元前157年に文帝が没すると、景帝が即位した。遺言によって服喪の期間は短くされ、祖母の薄氏は太皇太后、母の竇氏は皇太后となり、妃の薄氏が皇后に立てられた。官僚たちは、桀や紂、幽王のような暴君になるのではないかと危ぶんでいたが、即位後に人が変わったように有能な君主ぶりを示し、驚かせた。政治は基本的に文帝の政策の継承で、対外的には消極的な方針をとり、匈奴とは和親の策を続けて大きな衝突を避けた。倹約に努め、重農政策を進めて減税を行い、税は収穫の三十分の一に半減されたという。刑罰も軽くする方針を受け継ぎ、紀元前156年には、肉刑の廃止がかえって笞打ちによる死者を増やしていた現実を受けて笞の数を減らし、紀元前144年にもさらに減らした。社会は安定し、人口の九割が農業に従事していた。皇后の薄氏に子がなかったため、最初の数年は皇太子を立てなかった。母の竇氏は弟の劉武を後継にと望んだが、官僚の反対で実現せず、劉武はほかの諸侯王にない多くの特権を与えられた。

問題になっていたのは、皇族の諸侯王の力であった。諸侯王は領内の徴税や官吏の任命の権限を握り、その国は半ば独立した姿を見せていた。文帝の時代からの課題だったが、自身が代王から皇帝になった文帝は消極的で、中郎将の袁盎の諫言もあって、抜本的な対策は先送りにされていた。景帝は袁盎と犬猿の仲にあった御史大夫の鼂錯の進言に従い、諸侯王の些細な過失を理由に領地を取り上げて、中央集権を進めた。これに反発した諸侯王が連携し、紀元前154年に呉王劉濞を中心とする反乱、呉楚七国の乱が起こった。初めは反乱軍が優勢だったが、周亜夫の活躍で鎮圧された。以後、諸侯王の領地には官僚の相が派遣されて治め、諸侯王は税を受け取るだけとなり、権力削減は成功した。

景帝は、功労者の周亜夫を、皇太子の冊立をめぐる対立から丞相の職を解いた。その後、前漢で初めて自らの側近を丞相に任じた。それまで丞相は元勲とその一族から選ぶのが不文律になっていたが、景帝の時代にその権力は大きく下がり、皇帝権力が飛躍的に強まったことを示している。景帝は紀元前141年に没し、皇子の劉徹(武帝)が第7代皇帝となった。

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