HISTORICAL PERSON · 643年没

魏徴

唐の政治家で、太宗に直言して諫めたやりとりが『貞観政要』に多く載る。皇太子建成に仕えたが玄武門の変後に太宗に登用され、諫議大夫や侍中を歴任して貞観の治を支えた。没した時、太宗は鏡を一つ失ったと嘆いた。

生涯
643年没
死亡地
中華人民共和国(陝西省 / 隋唐長安城)
出生地
中華人民共和国(巨鹿県)
出典
世界地図
中華人民共和国(陝西省)

伝記

魏徴(ぎ ちょう)は、唐の政治家である。大象2年(580年)に生まれ、貞観17年1月17日(643年2月11日)に没した。字は玄成、本貫は鉅鹿郡下曲陽県。唐の太宗李世民に直言して諫めたことで知られ、そのやりとりは『貞観政要』に多く載る。諫議大夫・左光禄大夫・秘書監・侍中を歴任し、鄭国公に封ぜられた。若い頃は貧しく、正業に就かずに出家して道士になったが、読書を好んで広く物事に通じた。隋末に反乱集団が乱立すると、合従連横の策に関心を寄せた。反乱勢力の李密に臣従した元寶蔵の書記を務め、のち李密に仕えた。李密が王世充に敗れると、これに従って唐に身を寄せ、山東に赴いて黎陽の徐世勣を唐に帰順させた。竇建徳が黎陽を攻め落とすと捕らわれたが起居舍人に任じられ、唐が竇建徳を平定すると、隋の重臣だった裴矩を連れて唐に戻った。武徳4年(621年)、李世民が竇建徳を生け捕りにしたことで、魏徴は再び唐に帰順した。皇太子李建成は魏徴の名声を聞いて太子洗馬として招き、礼遇した。武徳5年(622年)、竇建徳の旧部である劉黒闥が突厥と結んで山東を侵すと、魏徴は軍功で李世民に劣る李建成に、自ら出陣して戦功を立てるよう勧めた。李建成はこれに従って劉黒闥を捕らえて斬り、山東を平定した。

武徳9年(626年)6月、李世民は玄武門の変を起こし、李建成と斉王李元吉を誅殺した。李世民は、魏徴がかつて李建成に自分を遠ざけるよう進言したと聞き、呼び寄せて「なぜ我々兄弟を離間させたのか」と問いただした。周囲が魏徴の身を案じるなか、彼は事実に基づいて「先の太子が私の言葉に従っていれば、今日の禍いはなかったでしょう」と率直に答えた。李世民はもとより才能を高く評価しており、言葉に偽りがないのを見て罪を赦し、詹事府主簿に任じた。間もなく諫議大夫に昇進させ、7月11日には河北に残る李建成・李元吉の旧勢力を慰撫する使命を与え、臨機の処置を許した。

魏徴は癇癪を起こした太宗を200回余りも諫めたという。家には客を迎える正堂がなく、病にかかったとき、太宗は小さな宮殿を造る予定だったのをやめ、その木材で魏徴の家に正堂を5日で建てさせた。質素な生活を尊敬した太宗は、あえて粗末な寝具を賜った。

貞観17年(643年)、64歳の魏徴が重病に臥すと、太宗は自ら見舞って長く語り合い、後に皇太子李承乾と衡山公主を連れて再び訪れた。魏徴は病躯を押して朝服をまとい出迎えた。太宗は涙を流して言い残すことを尋ね、魏徴は「寡婦は機織りの縦糸が少ないことを憂えず、宗周の亡びを憂う」と答えた。太宗は衡山公主を長男の魏叔玉に嫁がせると約束したが、魏徴にはもう起き上がって礼を言う力がなかった。数日後、太宗は夜中に魏徴の夢を見、翌朝その死の知らせが届いた。太宗は自ら喪礼に臨んで慟哭し、五日間朝議を停止し、司空・相州都督を追贈して「文貞」の諡を賜り、昭陵への陪葬を許した。太宗は侍臣に「人を鏡とすれば得失を知ることができる。魏徴が没して、朕は一つの鏡を失った」と語ったという。

後に皇太子李承乾の謀反が発覚し、魏徴が推挙した侯君集と杜正倫が処罰されると、太宗は魏徴が派閥を作ったのではないかと疑った。魏徴が自らの諫言を史官の褚遂良に見せていたことも不満を深め、婚約を破棄して墓碑を倒させた。しかし貞観19年(645年)、高句麗遠征から戻る途上で、太宗は「魏徴が生きていれば、このような無益な行いをさせなかったであろう」と嘆き、墓碑を再建させて少牢の礼で祭らせた。魏徴は『隋書』の序論などを著し、「人の鏡」「天下第一の宰相」と称されて、諫臣の模範とされる。

同じ年に亡くなった人物

該当人物はまだありません。

同じ地域に関係する人物