HISTORICAL PERSON · 1055年没

アーダルベルト (オーストリア辺境伯)

オーストリア辺境伯。「勝利伯」と呼ばれ辺境伯領の東境をマルヒ川とライタ川まで拡げ、ハンガリー・ボヘミアとの戦いでローマ王ハインリヒ3世を支援した。

生涯
1055年没
死亡地
オーストリア共和国(ニーダーエスターライヒ州 / メルク)
出生地
—
出典
世界地図
オーストリア共和国(ニーダーエスターライヒ州)

伝記

アーダルベルトは、勝利伯と呼ばれたオーストリア辺境伯(在位1018年〜1055年)である。985年ごろに生まれ、1055年5月26日にメルクで没した。バーベンベルク家の一員で、オーストリア辺境伯としては3代目にあたる。父は976年に皇帝からオーストリア辺境伯に任じられたレオポルト1世(名高き人)、母はリヒャルダ(リヒャルディス、リヒャとも)で、バイエルンのズアラフェルトガウ伯の家の出とされる。アーダルベルトは三男または末の息子として生まれた。兄にはハインリヒ1世がいたほか、エルンストは1012年にシュヴァーベン公となり、先のシュヴァーベン公の娘ギーゼラと結婚した。弟妹のうちポッポはトリーア大司教に選ばれ、レオポルトは1051年にマインツ大司教に選ばれたと伝えられる。

アーダルベルトは1010年にシュヴァイナッハガウ伯、1011年にキュンツィヒガウ伯となった。1018年に兄ハインリヒ1世が没すると、その跡を継いでオーストリア辺境伯となった。居所はドナウ川沿いのメルクにあり、のちにここにメルク修道院が創建されることになる。

辺境伯としては、当時まだ小さかったバイエルンの東方辺境領の東の境を、マルヒ川(モラヴァ川)とライタ川にまで広げた。1030年夏のドイツとハンガリーの戦いにも加わったとされる。また、ローマ王ハインリヒ3世に忠実で、ハンガリーやボヘミアとの戦いでこれを支えた。ハンガリー王サムエル・アバとの争いが1044年のメンフェーの戦いに至った際にも、王の側にとどまった。

最初の妻はグリスモートで、パーダーボルン司教マインヴェルクの姉妹にあたる。二人の間に子はなかったとする記述もあるが、嫡子エルンストを最初の妻の子とする記述もあり、確定しにくい。二度目の妻はハンガリー王ペーテル(オルセオロ家)の姉妹フロッツァで、のちにアーデルハイトの名を名乗ったという。子として、1043年にハンガリー辺境伯に任じられ、同年12月9日にまもなく世を去ったレオポルトと、1027年ごろに生まれたエルンストが挙げられる。エルンストは父の死後の1055年からオーストリア辺境伯となり、1075年まで在位した。

アーダルベルトは1055年5月26日、居城のあるメルクで亡くなった。

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