伝記
フェデリーコ・ディ・カノッサは、1040年ごろに生まれ、1052年から1055年までトスカーナ辺境伯をつとめた人物である。父はボニファーチオ・ディ・カノッサ、母は上ロートリンゲン公の娘ベアトリクスで、のちのトスカーナ女伯マティルデの兄にあたる。名は母方の祖父、上ロートリンゲン公フリードリヒ2世にちなむ。父方のカノッサ家は、レッジョ・エミリア、モデナ、マントヴァ、ブレシア、フェラーラなどを支配し、アペニン山脈やロンバルディア、エミリア・ロマーニャに広大な所領をもっていた。母方は皇帝ハインリヒ3世とも近い血縁にあり、フェデリーコは皇帝の甥にあたるとされる。
1052年5月6日、父ボニファーチオが狩りの最中に暗殺された。フェデリーコはこのときまだ年少で、一説には12歳であったという。辺境伯領を継いだものの、実際の統治は母ベアトリクスが摂政として担った。母は領地を守るため、同族のゴットフリート3世と再婚した。結婚は1053年か1054年のことで、マントヴァの聖ペテロ教会で、ドイツから戻る途中の教皇レオ9世が式を執り行ったとされる。ゴットフリートは皇帝ハインリヒ3世に反逆した人物であったため、この結婚は皇帝の怒りを買った。
1055年の春、皇帝はイタリアに入り、4月にヴェローナ、復活祭のころにはマントヴァに至った。ベアトリクスは弁明のための安全な通行を求め、皇帝がこれを認めたので、フェデリーコや姉マティルデらとともにフィレンツェへ向かった。皇帝は初めベアトリクスに会おうとせず、彼女を捕らえてドイツへ連行した。このとき、フェデリーコは皇帝に呼ばれながら出向くことを拒んだともいわれる。母と姉が捕らわれている間、フェデリーコはカノッサ城に残され、1055年7月に死去した。まだ15歳ほどで、子はなかった。
死因については、はっきりしたことは伝わらない。囚われの身のまま亡くなったとする記述もあれば、連行の旅の厳しさに耐えられなかったのだとする解釈もあり、この死がマティルデの皇帝家への恨みのもとになったと見る向きもある。なお、1053年までに没したとする記述もあり、没年には異説がある。亡骸はフェローニカのサンタ・マリア・アッスンタ修道院に葬られた。この修道院には1053年12月17日、母ベアトリクスが亡き夫とフェデリーコ、長女のために寄進を行っていた。フェデリーコの死によって、父の広大な遺領は姉マティルデひとりが受け継ぐこととなったが、マティルデはなお多くの戦いを経て、これを治めなければならなかった。
同じ年に亡くなった人物
- ベネディクトゥス9世 (ローマ教皇) (1055年)
- アーダルベルト (オーストリア辺境伯) (1055年没)
- 興宗 (遼) (1055年没)
- コンラート1世 (バイエルン公) (1055年没)
- ヴェルフ3世 (1055年没)
同じ地域に関係する人物
- ドメニコ・ベッカフーミ (1551年没)
- ヨハンネス・グラティアヌス (1150年没)
- ハインリヒ7世 (神聖ローマ皇帝) (1313年没)
- ニコラ・ピサーノ (1280年代没)
- イタロ・カルヴィーノ (1985年没)