伝記
コンラート1世は、エッツォ家出身のバイエルン公(在位1049年〜1053年)である。ズトフェン領主でもあり、クーノとも呼ばれ、ズトフェンのコンラートとも称される。1020年ごろに生まれ、1055年12月5日に没した。
父はズトフェン領主リウドルフ、母はマティルデである。父はロートリンゲン宮中伯エッツォの長男で、皇帝オットー2世の外孫にあたる。祖父エッツォが皇位を求めて果たせなかったことから、コンラートも家系を背景に皇位への望みを抱いていたとされるが、皇帝に子が生まれたことで、その望みは遠のいた。祖父の死後、宮中伯の職は叔父オットーに与えられ、1045年にオットーはシュヴァーベン公位を得た。ここから皇帝ハインリヒ3世とコンラートの間に不和が生じたとされる。1042年にはズトフェンを皇帝に取り上げられ、1046年にも所領を失ったという。
バイエルン公位が空位となって約18か月ののち、1049年2月2日に、ハインリヒ3世はコンラートをバイエルン公に任じた。バイエルンと地縁のない人物を据えたのは、ズトフェンの喪失の代償であるとともに、独立した権力を築かせず、公領を帝国に結びつけ、コンラートと一族をライン地方や帝位から遠ざける皇帝の意図だったとみられる。コンラートは在地貴族にほとんど受け入れられなかった。
コンラートはその後、シュヴァーベン大公オットー3世の娘ユーディト・フォン・シュヴァインフルトと、皇帝の意に反して結婚し、バイエルンでの権力を拡大しようとした。レーゲンスブルク司教ゲープハルト3世とも対立した。1052年から1053年にかけてメルゼブルクの宮廷に召喚され、1053年に公位を剥奪された。公位は皇帝の子ハインリヒ(のちのハインリヒ4世)に与えられた。
コンラートはこれを受け入れず、ハンガリー王アンドラーシュ1世のもとへ逃れ、かくまわれた。やがてハンガリーから戻り、ケルンテン公領とオーストリア辺境伯領で略奪を行った。1055年には、コンラートが中心となってハインリヒ3世に対する陰謀を企て、ケルンテン公ヴェルフ3世やアリボ家が加わったが、実行前の同年、コンラートとヴェルフ3世が急死し、陰謀は潰えた。ヴェルフに見捨てられたとする記述もある。子はなく、遺体は1063年にケルンのマリエングラーデン教会に葬られたとされる。
同じ年に亡くなった人物
- ブジェチスラフ1世 (1055年没)
- フェデリーコ・ディ・カノッサ (1055年没)
- ヴェルフ3世 (1055年没)
- ベネディクトゥス9世 (ローマ教皇) (1055年)
- コンスタンティノス9世モノマコス (1055年没)
同じ地域に関係する人物
- イシュトヴァーン3世 (ハンガリー王) (1172年没)
- エフロシニヤ・ムスチスラヴナ (1186年没)
- Vazul (1037年没)
- ステファン・ヴラディスラフ2世 (1326年没)
- バウエル・ルドルフ (1932年没)