伝記
李徳は、ベトナムの李朝の第2代皇帝で、廟号により李太宗(りたいそう)と呼ばれる。諱は仏瑪(ファットマ)、または徳政ともいう。ベトナム史上に残る名君の一人とされる。1000年、のちに李朝の初代皇帝となる李公蘊の長男として、前黎朝の都であった華閭に生まれた。母は前黎朝の黎桓の皇女である。幼少から聡明で、文武を修め、六芸のいずれにも通じたと『大越史記全書』は伝える。
1009年に李公蘊が即位して李朝を建てると、1012年に太子に立てられ、開天王に封じられた。1019年に元帥となり、1020年には父の命でチャンパへの南征を行い、龍鼻山でチャンパ軍を破って多くの捕虜を連れ帰った。1024年に峰州、1026年に演州の賊を討ち、1027年には七源州にも出兵している。1028年に太祖が崩じると遺詔によって跡を継ぐことになったが、封地で軍権を握っていた三人の弟が謀反を企て、広福門に兵を伏せて襲撃しようとした。乾元殿で危機を察知した李仏瑪は、弟たちを討つことをためらったものの、内侍らの進言を受けて将軍に命じ、宮中の護衛に門を開かせて迎え撃たせ、武徳王を討ち、残る二人を追い払って反乱を鎮めた。東征王と翊聖王は後に投降して許しを請い、赦されている。即位直後には故郷で反乱を起こした弟の開国王も降して赦した。
即位後は、文武百官を毎年銅鼓神廟に詣でさせて忠孝を誓わせ、違反者は杖刑に処した。1029年に愛州、1031年に驩州、1033年に定源州と彘源州で相次いだ反乱を、自ら出陣して平定した。1029年には宋の仁宗から交趾に封じられ、翌年には使者を送って宋に朝貢した。1038年には南平王に改封されている。内政では官僚制度を整え、仏教に傾倒して多くの寺院を建立した。乾符元宝や明道元宝の銭を鋳造して流通させ、官道を「弓」に分け、駅站を用いて政令が行き渡るようにした。飢饉や外征の後には民の賦税を2〜3年減免し、1038年には自ら耕して農耕を奨励し、1040年には宮女に錦綺を織ることを教えた。1042年には『刑書』を制定した。『永徽律疏』の影響を受けたこの法令集はベトナム史上最初の成文法とされ、官吏の収賄を禁じ、刑に見合った罰金で罪を贖えるようにし、十八歳以上の男子を奴隷にすることも禁じた。土地の抵当や耕牛の保護の規定も設けた。
軍事面では禁軍を十二衛に分け、府庫の器械を諸軍に与えて士気を高めた。1039年には昭聖皇帝を称した儂全福を親征で捕らえ、昇龍で処刑した。逃れた子の儂智高が1041年に大暦を建てて王を称すると、これを討って滅ぼした。しかし儂智高が臣従を示すと、父を失ったことをあわれんで釈放し、旧領に戻して1043年には太保に任じた。1044年にはチャンパに親征し、五蒲江でジャヤ・シンハヴァルマン2世の軍を破って3万人余りを戦死させ、王都を占領して妃ら5千人余りの捕虜と財宝を得て帰還した。1048年には将軍の馮智能に哀牢を攻めさせている。同年、儂智高が宋で南天を建てて背くと、郭盛溢に討伐を命じ、再び降伏させた。
1049年、蓮の上に座っていた観音が自らを登らせる夢を見て、霊沼池に太い木柱を立て、その上に寺を建てた。この一柱寺は長寿を祈願するものとされる。1054年、昇龍の長春殿で55歳で崩じ、太祖と同じく天徳府の寿陵に葬られた。三男で太子の開皇王李日尊が跡を継いだ(聖宗)。『大越史記全書』は、深謀は漢の光武帝に、四方の征伐は唐の太宗に匹敵すると賞賛する一方、儂智高を赦したことを仏教の慈悲に惑わされた一時の仁にすぎないと批判している。
同じ年に亡くなった人物
- Lambert II, Count of Louvain (1054年没)
- アティーシャ (1054年没)
- ガルシア3世 (ナバラ王) (1054年没)
- ヤロスラフ1世 (1054年没)
- イラリオン (キエフと全ルーシの府主教) (1054年没)
同じ地域に関係する人物
- レ・ドゥック・アイン (2019年没)
- ヴァン・ティエン・ズン (2002年没)
- ホー・チ・ミン (1969年没)
- 李公蘊 (1028年没)
- フランシス・ガルニエ (1873年没)