HISTORICAL PERSON · 1969年没

ホー・チ・ミン

ベトナムの革命家・政治家で、建国の父。ベトナム革命を指導して初代ベトナム民主共和国主席を務め、国民から「ホーおじさん」と親しまれた。

生涯
1969年没
死亡地
ベトナム社会主義共和国(ハノイ)
出生地
ベトナム社会主義共和国(キムリエン社)
出典
世界地図
ベトナム社会主義共和国(ハノイ)

伝記

ホー・チ・ミンは、1890年5月19日にフランス領インドシナのベトナム中部、ゲアン省で生まれた革命家、政治家である。植民地時代からベトナム戦争まで、ベトナム革命を指導した建国の父で、初代のベトナム民主共和国主席となった。幼名はグエン・シン・クン、成年後はグエン・タト・タインといい、第二次世界大戦まで使った変名のグエン・アイ・クオックでも広く知られる。人民からは親しみを込めて「ホーおじさん」と呼ばれた。儒学者だった父の影響で、幼い頃から論語の素読を学び、中国語を習得した。父が阮朝の宮廷に仕えるようになると、都のフエに移り、官吏を養成する国学でフランス語も学んだ。しかし、在学中に農民の抗税運動に関わったため、フランス当局に目を付けられ、退学処分を受けた。

その後、船の見習いコックとして採用され、1911年6月5日にサイゴンを出帆してフランスへ向かった。7月6日にマルセイユに着くと、カフェで初めてフランス人の従業員から「ムッシュ」と敬語で呼ばれて感激するなど、すべてが物珍しかったという。フランス本国にも、植民地のベトナム人と同様に貧しいフランス人がいることを知り、この体験が、のちの新国家建設にも影響したとされる。植民地学校の入学願書は受理されず、入学を断念し、「世界を見てみたい」と船員になって各国を回った。英語を学ぶためにイギリスに移住し、1917年12月にパリへ戻った。この年にロシア革命が起き、彼はレーニンを支持するようになった。

パリで政治活動を本格化させ、1919年初めにフランス社会党に入党し、安南愛国者協会を組織して事務局長となった。同年のパリ講和会議には、協会の代表として8項目の請願書を提出した。政治犯の釈放や言論の自由など、植民地のベトナム人にも本国の人と同等の権利を求めるもので、独立の要求ではなかった。この時、初めて「グエン・アイ・クオック」と署名し、穏健な民族主義者として世界に名を知られた。1920年にレーニンのテーゼに感銘を受け、同年12月、フランス共産党の結成に参加した。1923年にソビエト連邦に渡り、コミンテルンのアジア担当の常任委員に選ばれた。しかし、彼にとっての主要な課題は、共産社会の実現よりも、ベトナムの独立であった。1930年に香港で3つの共産主義組織を統一し、ベトナム共産党を創立した。民族解放を重視する姿勢は異端視され、1930年代には、権力の中枢から疎外されたが、1935年の路線転換で、第一線に復帰した。

1941年に30年ぶりに祖国へ帰り、カオバン省に入ってベトナム独立同盟会(ベトミン)を組織した。1942年8月に中華民国に赴いて蔣介石の協力を求めようとし、この頃から「ホー・チ・ミン」の名を使うようになったが、中国国民党に逮捕され、1943年9月まで牢獄で過ごした。1945年8月、日本の敗北が決定的になると、全国的な総蜂起を決議し、ハノイやフエ、サイゴンでの蜂起を経て、ベトミンは全土を掌握した。9月2日にハノイでベトナム独立宣言を発表し、ベトナム民主共和国を建国して、国家主席兼首相に就任した。1946年末にフランス軍との戦闘が始まり、彼は抗戦を訴えて第一次インドシナ戦争が始まった。1951年にベトナム労働党の主席となり、1954年のジュネーヴ協定でフランス軍は撤退した。1955年に首相職を譲り、1969年9月2日に死去した。

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