伝記
屈原は、中国の戦国時代の楚の政治家であり詩人である。姓は羋、氏は屈で、名は平または正則、字が原とされる。生没年は紀元前343年ごろから前278年ごろと伝えられる。中国で詩が作者の名を伴って記録され、記憶されるようになったのは彼が現れてからのことだとされ、春秋戦国時代を代表する詩人として名高い。
屈原は楚の武王の公子瑕(屈瑕)を祖とする公族の一人で、父は屈伯庸、弟は屈遙といった。屈氏は景氏、昭氏と並ぶ楚の公族の最高の名門の一つだった。家柄に加えて博聞強記で詩文にも優れていたため、懐王の信任が厚く、賓客の応接にあたる左徒の職に就いた。当時の楚では、西の秦とどう向き合うかが外交の主題で、臣下は、秦と結ぶ親秦派と、東の斉と結んで秦に対抗する親斉派とに分かれていた。屈原は親斉派の筆頭で、政治的な力量は群を抜いていたが、剛直な性格のために同僚の嫉妬を買って讒言を受け、王の傍から遠ざけられ、国内の世論は親秦派に傾いた。
屈原は秦は信用できないと必死に説いたが受け入れられず、その心配どおり、秦の謀略家張儀の罠に懐王がかかって、楚軍は大敗した。懐王17年(紀元前312年)の丹陽・藍田の戦いでの大敗ののち、彼はいっそう疎んじられて、公族の子弟を教える三閭大夫に左遷された。のちに秦が縁談を持ちかけて懐王を招いたとき、屈原は先年騙されたことを忘れたのかと諫めたが、王は親秦派の公子子蘭に勧められて秦へ行き、そのまま監禁された。楚では太子横が頃襄王として立ち、屈原が嫌い抜いた子蘭が令尹に就いたため、彼はさらに追われて江南へ左遷された。頃襄王21年(紀元前278年)、秦によって都の郢が陥落すると、楚の将来に絶望し、5月5日の端午に石を抱いて汨羅江に身を投げたと伝えられる。自殺の理由については古くから論じられ、宋の朱熹が示した祖国のための殉節という説明のほか、政治の理想が果たされない絶望や、無実と信念を守るためだったとする見方がある。
後世、命日の5月5日には、屈原の無念を鎮めるため人々が楝樹の葉で包んだ米の飯を五色の糸で縛って川に投げ込むようになり、これがちまきの由来といわれる。魚が遺体を食べないようにするためだったとも語られる。また、入水した屈原を救おうと民衆が先を争って舟を出したという故事が、龍船競漕の由来と伝えられる。作品は楚の詩を集めた『楚辞』に収められ、なかでも代表作の『離騒』は、後世の愛国の士に愛された。彼は『詩経』の四字句を離れ、長さの変わる句を用いて、より豊かな調べと表現をもたらした人物としても評価される。
ただし、その伝記と『楚辞』の作者をめぐっては疑問が出されている。胡適は『史記』の屈原伝の信憑性を疑い、岡村繁は実在は否定しないものの、生涯について知られることがあまりに少なく、どの作品が屈原のものかも時代により異なると論じた。屈原は楚辞文学のヒーローであって作者ではない、とする見方もある。矢田尚子は、『離騒』を屈原の自伝とすると後半の解釈に無理が生じ、そもそも自叙的な詩ではないとした。『楚辞』は後漢の王逸が編集・注釈して後世に伝わったため、屈原がその作者や編者としてどこまで関わったかは、はっきりしない。それでも、任用されなかった忠臣の理想像として、漢代以降に広く記憶されてきた。近代には横山大観が1898年に絵画『屈原』を描いている。