伝記
サムイルは、第一次ブルガリア帝国の皇帝(ツァール)で、在位は997年から1014年10月6日までである。976年から997年までは共同統治の形をとったとされ、生年は958年と伝わる。ラテン文字ではサムイル、サミュエル、サモイルなどと綴られる。東ローマ帝国と半世紀にわたって戦い、バルカン半島の大半を支配下に置いたが、没後数年でその国は降伏した。
サムイルは、ブルガリアの貴族である伯ニコラの四男で末子だった。ニコラはソフィア周辺の伯だったともいわれ、マケドニアのプレスパ地方の地方長官だったとする説もある。母はアルメニア人のリプシメと伝えられる。兄弟はダヴィド、モーセ、アロンで、東ローマ人の歴史家は彼らを「伯の息子たち」の意でコメトプロイと呼んだ。当時の第一次ブルガリア帝国は、キエフ大公スヴャトスラフ1世の遠征で打撃を受けていた。971年には東ローマ皇帝ヨハネス1世ツィミスケスが首都プレスラフを征服し、皇帝ボリス2世は帝位の記章をはぎ取られ、コンスタンティノープルに連れ去られた。これで帝国は滅んだとみなされたが、東ローマは西部の諸州を支配できなかった。ニコラは970年に没し、同じ年に四兄弟は反乱を起こした。一連の経緯は伝承が食い違って明らかでないが、971年以後はサムイルと兄弟が西ブルガリアの事実上の支配者となったことは確かだとされる。973年には、神聖ローマ皇帝オットー1世のもとへ使者を送って自領の保護を求めた。兄弟は四分割で統治し、ダヴィドは南のプレスパとカストリアを、モーセはストルミツァを、アロンはソフィアを拠点とし、サムイルは北西部をヴィディンの要塞から治めた。
977年頃からサムイルは、ブルガリア皇帝ロマンの下で軍の指揮権と実質的な権力を握ったとされる。ロマンの死後に自らも皇帝を称し、都をオフリド(現在の北マケドニアのオフリド)に置いた。オフリドは南西ブルガリアの文化と軍事の中心地で、のちにブルガリア総主教座も置かれた。このため彼の国は西ブルガリア帝国、あるいはサムイルの帝国とも呼ばれる。勢力は瞬く間に広がり、バルカン半島の西北部を押さえ、ギリシャのラリサをも占領した。さらにセルビア人のドゥクリャ公国を征服し、クロアチア王国やハンガリー王国にも遠征した。トラヤヌスの門の戦いでは東ローマ皇帝バシレイオス2世に勝ち、東ローマに残されたのは南部の沿岸部だけとなった。サムイルは「力において無敵、強さにおいて比類なし」と評され、東ローマ側でもヨハネス・キリオテスが、989年に現れたハレー彗星になぞらえた詩を詠んだ。
しかし、キエフ大公国の援軍を得て国内の反乱を鎮めたバシレイオス2世は、990年頃から反撃に転じた。サムイルはハンガリー王国との同盟などで対抗したが、997年のスペルヒオス川の戦いを境に次第に劣勢となった。1000年頃から東側の領土を次々に失い、バシレイオスが高い官職と多額の恩賞で懐柔したため、軍司令官たちが東ローマへ寝返っていった。その中には皇帝の息子もいたとされる。1001年からは、優勢な東ローマ軍に対する防衛が中心となった。
1014年7月、クレディオン峠の戦いで東ローマ軍に敗れた。サムイル自身は逃れたが、バシレイオスが送り返した、両目をつぶされた1万4千人ものブルガリア人捕虜が戻ってくるのを見て卒倒し、2日後の10月6日に亡くなった。心臓発作だったともいわれる。残された2人の息子や将軍たちは抵抗を続けたが、組織だった抵抗はできず、4年後の1018年に降伏した。
同じ年に亡くなった人物
- スヴェン1世 (デンマーク王) (1014年没)
- ブライアン・ボル (1014年没)
- バグラト3世 (ジョージア王) (1014年)
- ラージャラージャ1世 (1014年没)
- シグリーズ (1014年没)
同じ地域に関係する人物
- ジャン・マリア・ヴォロンテ (1994年没)
- コイノス (将軍) (紀元前326年没)
- ヨヴァン・ヴラディミル (1016年没)
- フィラ (紀元前400)
- Antigone (紀元前294)