伝記
コイノスは、アレクサンドロス3世に仕えたマケドニア王国の将軍である。ポレモクラテスの子で、紀元前367年に生まれ、紀元前326年に没したとされる。南マケドニアのエリメイア地方の出身で、土地を持つ貴族の家に属し、パルメニオンの名づけ子ともされる。アレクサンドロスの側近のなかでも、もっとも信頼の厚い一人であった。
アレクサンドロスが王位に就いた紀元前336年には、すでに高位の将校だったらしい。紀元前335年の北方遠征ではエリメイアの歩兵部隊を指揮した。翌年に始まる東征でも歩兵指揮官として戦い、グラニコス川、イッソス、ガウガメラなどの主要な戦いで名が挙がる。ファランクスの最も右に置かれる大隊を率いたとされ、これは主攻撃が右から行われるギリシア・マケドニアの伝統のなかで、信頼の厚さを示すものと考えられている。紀元前332年のティルス攻囲では、船で王や近衛歩兵とともに町への攻撃に加わったという。ガウガメラの戦いでは激しく戦って重傷を負った。グラニコス川の戦いのあと、新婚だったコイノスは、他の新婚の兵たちとともに、王の気遣いによって一時帰国を許された。その間に妻は息子ペルディッカスを産み、翌年、ゴルディオンで新たに徴募された兵とともに遠征軍へ戻った。
紀元前330年のペルシア門の戦いでは、フィロタス、アミュンタス、ポリュペルコンらと軽装歩兵を指揮し、アラクセス川に橋を架けた。バクトリアへ向かう途中、帰順したばかりのアレイア太守サティバルザネスがベッソスに寝返ると、王とともに急行してアレイアを制圧した。同年のフィロタス裁判では、フィロタスの妹を妻としていたコイノスは、おそらく保身のためか、彼を裏切り者として激しく弾劾し、ヘファイスティオン、クラテロスとともに、拷問で真相を究明すべきだと主張した。フィロタスは父パルメニオンとともに処刑された。囚人に石を投げようとして王に止められたという話もある。
紀元前328年のソグディアナでは、アルタバゾスとともに、スピタメネスが逃げ込んだというスキタイ人の土地へ送られた。高齢を理由にアルタバゾスが引退すると、コイノスはスピタメネスの攻撃を受けたが撃退した。ペルシア人のアルタバゾスと共同で指揮を執ったことは、古参のマケドニア人でありながらペルシア人との共同指揮を受け入れた例だと見られている。まもなくマッサゲタイ人とスキタイ人がスピタメネスの首を持って投降し、コイノスはナウタカで王に合流した。紀元前327年のアスパシオイ人、アッサケノイ人に対する作戦では、王が軍を分けると、その下で戦い、バジラという町(現在のバリコト)の攻囲を任され、分遣された。コイノスには補給や輸送の重要な任務も託され、パルティアでダレイオス3世を追った際にもそれを務めたという。ヒュダスペス川に至ると、渡河のためにインドス川の船を運べと命じられて引き返し、これを果たした。紀元前326年のヒュダスペス川の戦いでは右翼の歩兵を指揮し、敵の左翼への攻撃で大きな役割を果たした。続いてアケシネス川を渡るときには、後続の現地インド人部隊の渡河を助けるため、その川に残された。
ヒュパシス川に達したとき、長い遠征に疲れた軍はこれ以上の進軍を拒んだが、王はさらに進もうと唱えた。このとき、反転を説いた長い演説をしたのがコイノスで、兵が疲れ果て、集めた富を楽しみたがっていると述べたという。王は結局、反転を受け入れた。ところが反転から三日後、コイノスは病で世を去った。王は彼のために盛大な葬儀を行ったと伝えられる。
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