HISTORICAL PERSON · 紀元前294没

Antigone

マケドニア出身の貴族の女性で、プトレマイオス1世の継娘。ピュロスに嫁いでエペイロスの王妃となり、亡き後ピュロスが彼女にちなんだ植民市アンティゴニアを建設した。

生涯
紀元前294没
死亡地
—
出生地
ギリシャ共和国(西マケドニア / エオルデア)
出典
世界地図
ギリシャ共和国(西マケドニア)

伝記

アンティゴネは、マケドニア出身のギリシア人貴族の女性で、エペイロス王ピュロスの最初の妻となり、エペイロスの王妃であった。紀元前317年より前に生まれ、紀元前295年に没したとされる。母の再婚によってプトレマイオス朝の王家に連なり、ピュロスとの結婚によってエペイロスの王妃となった。父はピリッポスという人物で、アミュンタスの子にあたる。アレクサンドロス大王に仕える軍人で、大王の遠征でファランクスの一部隊を指揮した。ピリッポスにはそれ以前の結婚による子、とくに娘たちがいたとされる。母はエオルダイア出身の貴族の女性ベレニケで、ベレニケの母は摂政アンティパトロスの姪にあたり、アルゲアス家の人々とも縁続きであった。アンティゴネは夫妻の二番目の子で、兄にマガス、妹にテオクセナがいた。

紀元前318年ごろ、父は病没した。母ベレニケは子どもたちを連れてエジプトへ移り、母の従姉妹エウリュディケの一行に加わった。エウリュディケはそのとき、プトレマイオス朝の初代支配者となるプトレマイオス1世(ソテル)の妻だった。やがてプトレマイオス1世はベレニケを愛するようになり、エウリュディケと離縁してベレニケと結婚したとも、エウリュディケの妻の座のままベレニケを側室に迎えたともいわれる。いずれにせよ、アンティゴネは義父の宮廷で育った。ベレニケはプトレマイオス1世との間に、アルシノエ2世、ピロテラ、のちのファラオ、プトレマイオス2世ピラデルポスの三人を産んだ。

紀元前300年か299年、エペイロス王ピュロスは、デメトリオス1世とプトレマイオス1世の短い和解の取り決めにより、人質としてエジプトへ送られた。ピュロスは若くして王位を追われ、イプソスの戦いではデメトリオス1世の側で戦った人物である。エジプトの宮廷でベレニケがもっとも影響力と徳を備えた后だと見たピュロスは、彼女に気に入られるよう努め、数多くの王子の中からアンティゴネの夫に選ばれた。結婚は紀元前299年か298年のことである。

プトレマイオス1世はピュロスに艦隊と資金、武器を与え、ピュロスはアンティゴネとともにエペイロスへ向かった。国を奪っていた親族のネオプトレモス2世とは共同統治の取り決めを結んだ。のちにネオプトレモスはピュロスを毒殺しようと企てたが、ファイナレテという女がこれを察してアンティゴネに告げ、アンティゴネがピュロスに伝えた。ピュロスは供犠の席でネオプトレモスを殺した。アンティゴネは、娘のオリュンピアスと息子のプトレマイオスを産んだ。娘オリュンピアスは、のちに兄弟のアレクサンドロスと結婚し、ピュロス、プトレマイオス、フティアの三人の子をもうけたと考えられている。ただ、オリュンピアスがアンティゴネの娘であるかどうかは推測による。アンティゴネは息子の誕生と同じ年に没したようであり、産褥で亡くなった可能性があるとされる。ピュロスはプトレマイオス1世とベレニケをたたえて息子にプトレマイオスと名づけ、エペイロスに築いた町にもベレニスという名を与えたという。亡き最初の妻をしのんで、アンティゴニアという植民市も建てた。その後ピュロスは何度も結婚して同盟を結び、シュラクサイのアガトクレスの娘ラナッサとの間にアレクサンドロスを、イリュリア人バルデュリスの娘ビルケナとの間にヘレノスをもうけた。ピュロスは後継者を定めず、もっとも鋭い剣を持つ者が継ぐだろうと言ったという。

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