HISTORICAL PERSON · 紀元前294年没

アンティパトロス2世

アンティパトロス朝のマケドニア王。弟を優遇したとして母テッサロニカを殺害し王位を争ったが、後に舅リュシマコスに裏切られたとして彼に殺された。

生涯
紀元前294年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

アンティパトロス2世は、アンティパトロス朝のマケドニア王である。紀元前297年から紀元前294年まで在位したとされる。父はアンティパトロス朝を開いたカッサンドロス、母はアレクサンドロス3世(大王)の異母妹にあたるテッサロニカで、二人の次男として生まれた。祖父は、大王がアジア遠征に出た際に王国の摂政を任されたアンティパトロスである。生年は知られていない。祖父と区別するため、誤って「1世」と数えられることもある。祖父は王の称号を名乗ったことがない。父カッサンドロスは大王の後継者たちを滅ぼし、自ら王を名乗って、大王の帝国が分裂していくきっかけをつくった人物である。妃は、トラキア王リュシマコスの娘エウリュディケであった。

紀元前297年にカッサンドロスが没すると、まず長兄のピリッポス4世が王位についた。ところが兄は父の死の直後というごく短い在位で早世し、アンティパトロス2世は弟のアレクサンドロス5世とともに王位を継いだ。兄弟は母テッサロニカの摂政のもとで共同統治を行い、三人の治世は合わせて三年六か月ほどだったと伝えられる。彼らは、大王の王家の血を直接に引く最後のマケドニア王たちでもあった。やがて単独で支配したいと望んだアンティパトロス2世は、王国の分割にあたって母が弟をひいきしたとして、命乞いをする母を殺し、弟を王位から退けた。母を殺したのち、リュシマコスのもとへ逃れたともされる。

弟のアレクサンドロス5世は母の復讐を誓い、兄と戦うためにエペイロスのピュロスやデメトリオス1世(ポリオルケテス)の助けを求めた。リュシマコスは娘婿のアンティパトロス2世を説得して、弟との和解を促した。しかしデメトリオス1世は、イプソスの戦いで敗れて以来、再起の機会をうかがっていた。マケドニアの人々に対しては、自分が経験豊かであること、父アンティゴノスが大王とその父ピリッポスに仕えた将軍であったことを挙げて、王位にふさわしいと説いたという。さらに、祖父アンティパトロスが苛烈な統治者であったこと、カッサンドロスが女性や子どもまで容赦せず王家の者を根絶やしにしたことも、味方を得る口実になった。カッサンドロスの悪行を大義名分としたデメトリオス1世は、エウセビオスによればアレクサンドロス5世を殺して王位につき、アンティパトロス2世を追放した。

そのころリュシマコスはトラキア人の王ドロミカイデスと戦っていた。デメトリオス1世との二正面作戦を避けたかった彼は、娘婿への支援をやめ、マケドニアの領土をデメトリオス1世が握ることを認めた。アンティパトロス2世は王位も領土も失い、その後、リュシマコスに騙されたと不満を漏らしたため、リュシマコスの手で殺された。娘のエウリュディケは、抗議したために牢に入れられたという。没年は紀元前294年とされるが、リュシマコスがデメトリオス1世に勝った後の紀元前288年とする説もある。

この死によって、カッサンドロスとテッサロニカの直系の子孫は絶えた。紀元前279年には従兄弟のアンティパトロス・エテシアスが王朝を一時的に再興したが、在位二か月たらずで親族のソステネスに王位を奪われ、ソステネスも紀元前277年に暗殺された。アンティパトロス朝は不安定な短命の王朝に終わった。ユスティヌスは、カッサンドロスの家が大王に対する罪の報いを受け、自殺や子孫の断絶、暴力による死、互いの流血によって滅びたと記している。

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