HISTORICAL PERSON · 1893年没

イポリット・テーヌ

フランスの哲学者・批評家・文学史家。批評の対象を人種・環境・時代の3要素で分析する方法をとり、『英国文学史』『知性論』『芸術哲学』を著した。大作『近代フランスの起源』は未完に終わった。

生涯
1893年没
死亡地
フランス共和国(パリ / rue Cassette)
出生地
フランス共和国(ヴージエ)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

イポリート・アドルフ・テーヌは、1828年4月21日にフランス北部アルデンヌ地方のヴージエに生まれた哲学者、批評家、文学史家である。羊毛織物を営むかなり裕福な家に生まれ、父ジャン=バティストは弁護士で、息子に幅広い読書を奨め、美術や音楽の手ほどきも受けさせた。母ヴィルジニーとのあいだの妹ウージェニーは、のちの作家アンドレ・シュヴリヨンの母となった。ところが13歳ごろに父を亡くし、1841年にはパリのバティニョール地区の寄宿学校に入れられた。優秀な成績で進み、1847年にはブルボン高校で科学と哲学の二つのバカロレアに合格して、全国学力コンクールの最優秀賞を受けた。エコール・ノルマル・シュペリウールの文科の入学試験に首席で合格し、同級生には後の批評家サルセーらがいた。しかし、当時流行していたクーザンらの哲学に対する自由で強情な態度のために、1851年の哲学教授資格試験に失敗した。

そこで地方を選び、ヌヴェールとポワティエのリセで教えながら独学を続けた。1853年にラ・フォンテーヌの寓話に関する論文で学位を得、翌年にはリウィウス論でアカデミーの賞を受けた。この頃から実証主義と科学主義の考えを取り入れた。学位取得後はブザンソンへの異動を命じられたが断り、パリに出て医学校に籍を置き、私塾でも教えた。1855年には療養のためピレネーを訪れ、のちに有名な『ピレネー紀行』を書いた。パリでは、『両世界評論』や『ディベ』紙に哲学、文学、歴史の論文を数多く寄せ、1857年の『歴史および批評論』で批評家としての地位を確立した。

代表作『英国文学史』は、英国に6週間滞在した後、1863年に刊行された。これは何度も再版されたが、哲学的な教義を理由に、アカデミー・フランセーズが賞を与えることには反対の声があがった。1860年代半ばにパリの美術学校の教授となり、約20年間美術史を講じ、その成果をのちに『芸術哲学』(1882年)として発表した。1868年にテレーズ・ドゥニュエルと結婚し、二人の子をもうけた。1870年の『知性論』で哲学に復帰し、1871年にはオックスフォード大学の法学博士となり、1878年にはアカデミー・フランセーズの会員に選ばれた。

その思想は感覚論に由来し、人間や作品の発展を自然科学の見地から考察して、その法則を見いだそうとした。薬学と解剖学を学んで培った正確な観察への情熱のもと、批評の対象を人種、環境(風土と社会構造)、時代の三つの要素に還元する方法をとり、決定論や唯物論に傾いていた。ただ、判断や形式化があまりに早く、現実を犠牲にして定義してしまうという欠点も指摘されている。普仏戦争とパリ・コミューンを機に、政治と社会問題に熱中するようになった。彼にとってイギリスの保守主義と秩序は模範とすべきものであり、フランスの状態は唾棄すべきものだったという。晩年は、革命精神の起源を明らかにしようとした大作『近代フランスの起源』に力を注いだが、未完に終わった。彼はこの書で、デカルトに始まる演繹的精神が具体的事実を無視する傾向を強め、近代フランスの悲劇を招いたと説いた。1893年3月5日にパリで没した。

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