伝記
ミシェル・ネイは、フランス革命戦争およびナポレオン戦争期に活躍したフランスの軍人で、元帥である。1769年1月10日に生まれ、1815年12月に銃殺刑に処せられた。ナポレオン・ボナパルトの側近の一人で、ナポレオンに「勇者の中の勇者」と言わしめた。
当時フランス領だったザール地方のザールルイで、七年戦争に従軍した元兵士で樽職人のピエール・ネイの次男として生まれた。一度は公証人を志して法律事務所に就職したが、1787年に王国軍の軽騎兵連隊に一兵卒として入隊した。フランス革命の混乱の中で頭角を現し、1792年のヴァルミーの戦い、1793年のネールウィンデンの戦いに参加した。1797年4月に騎兵突撃を指揮してオーストリア軍の反撃を受け、捕虜となったが、5月8日の捕虜交換で解放された。2年後の1799年3月には若くして師団長に昇進した。1800年12月のホーヘンリンデンの戦いでは、モロー将軍の下で左翼軍を率いて粘り強く戦い、右翼軍のグルーシーとともに敵軍を大きく破った。この活躍でナポレオンから目を付けられ、のち部下となった。1802年にスイスへ派遣され、同年8月5日に、ジョゼフィーヌの紹介で結婚した。スイス人傭兵ジョミニを副官として助力を得、歩兵指揮官としても優れた能力を身につけた。ジョミニの著作の出版費用を負担し、のちに彼がネイのもとを離れた後も、ジョミニは終生ネイを敬愛したという。
1804年5月19日、ナポレオンから元帥号を与えられた18人の一人となった。1805年には大陸軍の第6軍団を率いてライン川を渡り、ウルムの包囲網の完成に加わり、チロルでヨハン大公の軍を破ってインスブルックを占領した。1806年のプロイセン戦役のイエナの戦いでは、猪突して敵中に孤立し、ランヌの軍団に救われた。1807年2月のアイラウの戦いでは、増援でナポレオンの敗北をかろうじて免れさせ、同年6月のフリートラントの戦いでは右翼を指揮して決定的勝利に貢献した。1808年にエルヒンゲン公爵位を授けられ、半島戦争に参加したが、マッセナに嫉妬して度々衝突し、1810年にポルトガルでウェリントンに敗れた。
ロシア遠征では第3軍団を指揮し、スモレンスクで首に銃弾を受けたが、ボロジノで奮戦した。モスクワからの退却では、11月3日にダヴーに代わって後衛司令官となり、渡河する味方を援護した。逆境での粘り強さと勇気は伝説となり、ナポレオンは「ミシェル・ネイこそ真に勇者の中の勇者だ」と述べた。1813年3月にモスクワ大公の称号を与えられた。1814年3月31日にパリが陥落すると、他の元帥らとともに退位を迫った。王政復古後はルイ18世に忠誠を誓い、ナポレオンのエルバ島脱出に際して「鉄の檻に入れて引っ立てて来る」と豪語したが、親書を受け取ると3月15日に帰順した。
百日天下のカトル・ブラの戦いでは、一時ウェリントンを窮地に追い詰めたが、増援が来ず努力は無駄に終わった。ワーテルローでは前衛で事実上の総指揮を執り、騎兵による総突撃を敢行したが、砲兵の支援がなくイギリス歩兵の方陣を崩せなかった。敗戦後、亡命の提案を断り、8月3日に拘束され、反逆罪に問われた。上院の裁判では161票中139票で有罪となり、グルネル平原で銃殺された。目隠しを勧められると「20年以上も前から銃弾を直視してきた」と言い返したと伝わる。
同じ年に亡くなった人物
- サラ・バートマン (1815年没)
- フリードリヒ・ヨシアス・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト (1815年没)
- ジェームズ・ギルレイ (1815年没)
- リチャード・バセット (1815年没)
- ダライ・ラマ9世 (1815年没)
同じ地域に関係する人物
- ジャン=シャルル・ド・ボルダ (1799年没)
- カミーユ・デムーラン (1794年没)
- ジョルジュ・スペナール (1983年没)
- ジュール・オッペール (1905年没)
- フランソワ・マンサール (1666年没)