伝記
藤原伊尹は、平安時代中期の公卿・歌人である。延長2年(924年)に生まれ、天禄3年(972年)に没した。右大臣・藤原師輔の長男で、妹の安子が生んだ冷泉天皇と円融天皇の即位に伴って栄達し、摂政・太政大臣にまで上り詰めたが、まもなく病で早世した。名の「伊尹」は、古代中国の殷で太甲を一時追放して摂政となった名臣にちなむ。孫に書家として名高い藤原行成がいる。
天慶4年(941年)に従五位下に叙され、村上朝の天暦・天徳年間には右兵衛佐、左近衛少将、権中将と武官を歴任しつつ、五位蔵人を兼ねた。この間に妹の安子が村上天皇の中宮となり、憲平親王、為平親王、守平親王の三皇子を産んで、師輔の家は外戚としての地位を固めた。天徳4年(960年)に父が急死したとき、伊尹は蔵人頭兼左近衛権中将で、弟の兼通と兼家はまだ低い官位にとどまっていた。それでも、憲平親王を皇太子と定めた村上天皇の強い意向で、同年の除目で参議に進んだ。康保4年(967年)正月には、先任の参議4名を飛び越して権中納言に昇った。その間に弟の兼通、兼家を相次いで蔵人頭に送り込み、村上天皇との関係を強めている。
同年5月に村上天皇が崩じて憲平親王が冷泉天皇として即位し、伊尹は天皇の外伯父となった。大臣の経験がなかったため、伯父の実頼が故師輔にかわって関白太政大臣に就いたが、政治を主導したのは伊尹ら兄弟だった。伊尹は娘の懐子を冷泉天皇の女御として入内させ、安和元年(968年)に師貞親王が生まれた。天皇に狂気の病があり長い在位は望めなかったため、東宮には年少の守平親王が選ばれた。為平親王の妃が左大臣源高明の娘で、将来源氏が外戚となることを藤原氏が恐れたためである。翌安和2年(969年)、高明は源満仲の誣告により謀反の咎で大宰府へ左遷された(安和の変)。首謀者は明らかでなく、伊尹が仕組んだという説もある。同年、冷泉天皇は守平親王に譲位して円融天皇となり、東宮には伊尹の外孫の師貞親王が立てられた。
天禄元年(970年)正月に右大臣となり、5月に実頼が亡くなると、藤氏長者を継いで摂政に任じられた。翌年には太政大臣となり、名実ともに朝廷の第一人者となった。しかし天禄3年(972年)8月ごろ病に倒れ、10月には重篤となって、円融天皇から平癒のために度者80名を与えられた。10月末に死期を悟って上表し、摂政を辞し、11月1日に49歳で亡くなった。正一位を贈られ、謙徳公と諡された。死因は飲水病(糖尿病)あるいは悪瘡とされる。『大鏡』には、父師輔が葬儀を簡略にするよう遺言したのに通例どおりの儀式を行ったために早逝したとの噂や、蔵人頭を争った藤原朝成の生霊に祟られたという話があるが、記録上両者が官職を競った証拠はなく、伊尹は朝成より先に亡くなっている。
没後12年の永観2年(984年)、伊尹の外孫の師貞親王が花山天皇として即位し、子の義懐が政務を執った。しかし天皇は兼家の策謀でほどなく出家・譲位し、一条天皇の外祖父となった兼家が摂政に就いた(寛和の変)。義懐は出家して世を捨て、以後の伊尹の系統は振るわなかった。伊尹は豪奢を好み、節倹を遺訓とした父の教えを守らなかった。和歌に優れ、撰和歌所の別当として『後撰和歌集』の編纂に深く関わり、家集に『一条摂政御集』がある。「あはれとも いふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな」は小倉百人一首の45番に採られている。
同じ年に亡くなった人物
- スヴャトスラフ1世 (972年没)
- ヨハネス13世 (ローマ教皇) (972年没)
- アンドレゴト・ガリンデス (972年没)
- リュートプランド (クレモナ司教) (972年没)
- ボレスラフ1世 (ボヘミア公) (972年)