HISTORICAL PERSON · 1011年没

一条天皇

第66代天皇。寛和の変により5歳で立太子し7歳で即位、治世下で藤原道隆が定子の立后を強行し史上初の四后を実現するなど藤原氏の権力争いの舞台となった。

生涯
1011年没
死亡地
日本(京都府 / 京都市)
出生地
日本(京都市)
出典
世界地図
日本(京都府)

伝記

一条天皇は、日本の第66代天皇である。諱は懐仁。天元3年(980年)に円融天皇の第一皇子として生まれた。母は右大臣藤原兼家の娘で女御の詮子である。兄弟姉妹はなく、前帝の花山天皇や次帝の三条天皇は従兄弟にあたる。永観2年(984年)に円融天皇が花山天皇へ譲位すると、懐仁親王は5歳で皇太子に立てられた。

花山天皇の朝廷では、10歳代の天皇と30歳前後の側近藤原義懐、藤原惟成による革新的な政策が進められていた。しかし、すでに50歳代後半だった兼家は、外孫である春宮の早い即位による政権掌握を望んでいた。寛和2年(986年)6月23日、兼家は謀略を実行した。子の道兼は花山天皇を言葉巧みに内裏から連れ出して出家させ、道隆と道綱は神璽と宝剣を懐仁親王のいる凝華舎へ移した。こうして花山天皇は退位に追い込まれ、一条天皇が践祚した(寛和の変)。皇太子には従兄の居貞親王(のちの三条天皇)が立てられ、兼家は外祖父として摂政に就いた。7月22日の即位の儀の日には、高御座に髪のついた生首が転がっていたという逸話が『大鏡』にある。実際にあったとは思えないが、即位を快く思わない勢力の存在をうかがわせる。

永祚2年(990年)正月、11歳で元服した。まもなく道隆の長女定子が、添臥を兼ねて入内した。兼家は関白に移ったのち出家し、長男の道隆が外戚として関白を継いだ。同年10月、道隆は定子を立后させた。三后の座は埋まっていたため、皇后の別称だった「中宮」を皇后から独立させ、三后を四后とする形で実現した。これが四后の初例であり、藤原実資は強く非難した。長徳元年(995年)に道隆は飲水病(糖尿病)で政務に支障をきたし、嫡男の伊周に関白を譲ろうとしたが、一条天皇は許さなかった。道隆が没したのち、弟の道兼が関白を継ぐも、数日で疫病に倒れて「七日関白」と呼ばれた。5月には権大納言の道長に内覧の宣旨が下る。翌長徳2年(996年)正月、伊周と隆家が花山法皇に矢を射る事件を起こし、伊周が詮子を呪詛したことなども明らかになったため、天皇は伊周を大宰府へ、隆家を出雲へ左遷した(長徳の変)。

内覧にとどまった道長とともに、祖父の村上天皇のような親政を志したとされ、道長と天皇は協調した。のち大江匡房が実資や藤原行成らの人材を輩出したと称えるほどの政治体制が整い、長保元年(999年)に発布された「長保元年令」は後の新制の基本として重んじられた。この時代には藤原氏の権勢が最盛に達し、皇后定子に仕えた清少納言、中宮彰子に仕えた紫式部や和泉式部らによって平安女流文学が花開いた。天皇自身も文芸に関心が深く、詩文を残し、笛も得意だったという。愛猫家で、内裏で生まれた猫のために儀式を行い、乳母までつけたという話が『小右記』にある。この猫は「命婦のおとど」と名づけられ、叙爵されていたことが『枕草子』に見える。

晩年、定子の産んだ敦康親王を次の東宮にと望んだが、行成が道長の意向を尊重して敦成親王を東宮にするよう進言したことが『権記』に記される。道長との関係は、『御堂関白記』では良好にみえる一方、『権記』には天皇が道長の行動を「忍び難き事」と語ったとある。譲位の意向を伝えても慰留されるうちに病が重くなり、寛弘8年(1011年)6月13日に居貞親王へ譲位して太上天皇となり、6月19日に出家して、22日に崩御した。32歳であった。土葬を望んでいたが、道長がそれを失念したとされ、火葬された。希望どおり父円融院の陵のそばに葬られたのは、9年後の寛仁4年(1020年)のことである。在位中の里内裏の名から「一条院」と追号された。

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