伝記
フィリップ6世は、1293年11月17日に生まれ、1350年8月22日に没したヴァロワ朝初代のフランス王で、在位は1328年から1350年までである。フィリップ3世の子ヴァロワ伯シャルルと、最初の妃マルグリット・ダンジューの間に生まれ、幸運王と呼ばれた。フィリップ4世の三人の息子は彼の従兄弟にあたり、1314年から1328年にかけて相次いで王位に就いた。1313年7月にはブルゴーニュ公ロベール2世の娘ジャンヌと結婚している。
1316年、ルイ10世が男子を残さず没した際、妃が身ごもっており、その子ジャン1世の死後、王位を継いだのは弟フィリップ5世だった。ルイ10世の娘ジャンヌを退けたこの決定は先例となり、女系継承が排除された。サリカ法の適用はのちのシャルル5世の代とする説もあり、ジャンヌの嫡出性への疑いが理由だとする説もある。1328年にシャルル4世も男子を残さずに没し、妃ジャンヌ・デヴルーが産んだのは女児ブランシュだった。こうしてフィリップ4世の男系男子が絶えたため、フィリップ3世の男系の孫として、貴族と聖職者の会議で彼が選ばれて即位した。女系の孫であるイングランド王エドワード3世が王位継承権を主張したが、フィリップの即位は異議なく受け容れられたという。一方、それまで同君連合にあったナバラ王国では女系継承が認められており、ルイ10世の娘ジャンヌが女王として王位を継いだ。
即位して間もない1328年8月23日、織布工と農民の反乱に苦しんでいたフランドル伯ルイ1世を援助し、カッセルで反乱軍に勝利した。王としての正統性を固める狙いがあったとされる。翌年には、エドワード3世がアミアンでギュイエンヌについて臣従の宣誓を行い、フィリップの王位を認めた。ところが、1333年にスコットランド王デイヴィッド2世がフランスに亡命してきた際、フィリップはこれを歓迎した。エドワード3世も、アルトワ伯領をめぐってフィリップと対立していたロベール・ダルトワの亡命を受け入れていた。フィリップがロベールの引き渡しを求めて拒まれると、アキテーヌ公領とポンティユー伯領の没収を宣言し、1337年に百年戦争が始まった。1340年にはエドワード3世がフランス王を称した。
戦況は厳しかった。1340年6月23日、フィリップの艦隊はスロイスの海戦でイングランドに敗れた。1346年8月26日のクレシーの戦いでは、歴史家フロワサールに「いとも大いなる、且ついとも恐るべき」と言わしめるほどの大敗を喫し、王自身は戦死を免れた。翌年にはカレーを占領されて経済が混乱し、塩の専売特権を設けて対処したが、流れは変えられなかった。黒死病が流行し、国内が混乱する中で、1350年に世を去り、長子ジャン2世が跡を継いだ。最晩年の1350年1月にはブランシュ・デヴルーと再婚している。
フィリップは、グルノーブル近辺のドーフィネ領を購入し、息子のジャンに与えるはずだったが、売買の成立前に没したため、孫のシャルル(のちのシャルル5世)に与えられた。以後、ドーファンの称号はフランス王太子に与えられる。幸運王の異名は、治世に多くの幸運に恵まれたからとされ、クレシーでの戦死を免れたことや、黒死病の被害が他の欧州諸国より少なかったことが挙げられる。また経済政策に成功し、ヨーロッパで最も裕福な国の一つになったともいわれる。
同じ年に亡くなった人物
- ヤコポ・ダ・ボローニャ (1350年(推定))
- フアン・ルイス (1350年)
- ナムデヴ (1350年)
- イブン・カイイム・アルジャウズィー (1350年)
- ユハネス・デ・ムリス (1350年)
同じ地域に関係する人物
- ミシェル・ルブロン (2009年没)
- レオン・ブルジョワ (1925年没)
- アウグスト・マッケ (1914年没)
- ニコラ・ド・グリニー (1703年没)
- テオドリック1世 (451年没)