伝記
カーヒルは、アッバース朝の第19代カリフ(在位932年〜934年)である。正式な名はムハンマド・イブン・アフマドといい、カーヒル・ビッラーはカリフとしての称号にあたり、通称はアブー・マンスールである。899年に生まれ、950年に没した。第16代カリフのムウタディドと、フィトナという女奴隷との間に生まれ、第18代カリフのムクタディルの異母弟にあたる。
カリフ位に就いたのは、兄ムクタディルと、勢力を強めていた大将軍ムーニスとの対立の中でのことである。929年3月、ムーニスは謀反を起こしてムクタディルを廃し、カーヒルを担ぎ出して即位させた。しかし謀反はまもなく鎮圧され、ムクタディルが数日で復位した。カーヒルは兄の前で泣いて命乞いをし、許されたという。この後、ムーニスは事実上の独裁的な権力を握った。932年、ムーニスはふたたびムクタディルと決裂してバグダードへ進軍し、ムクタディルは戦いのなかで殺された。その後の有力者の集まりでは、ムーニスが推したムクタディルの子アフマド(のちのラーディー)は退けられ、932年10月31日にカーヒルが35歳で選ばれた。
即位したカーヒルは、まもなくムーニスと不和になった。敗れた側の宮廷派と連絡を取り戻したが、自らも宮殿で監視下に置かれるようになった。それでも933年、ムーニスとその主な部下を宮殿におびき寄せて処刑することに成功し、宰相イブン・ムクラは都から逃げた。カーヒルは、兄の子や役人、ムクタディルの母シャグブを拷問して財産を取り上げ、敵対した重臣の多くを殺して財産を没収した。反シーア派の政策もとり、自らを「信仰の敵への復讐者」と称して、その語を貨幣にも刻ませた。宰相にはムハンマド・イブン・カースィムを任じたが、まもなく退けてアフマド・ハシービーに替えた。ただ、ハシービーも前任者と同じく、深まる国家の財政難を克服できなかった。宮廷では前任者の放埒な暮らしとは対照的に、質素で禁欲的な姿を示したが、裏では酒に溺れていたとされる。
性格は移り気で、血を好み、臣下に恐れられた。歴史家マスウーディーは、その激しい発作が臣下の恐怖の的となったと記す。槍を携えて歩き、気に入らない者を打ち倒したともいう。些細な私怨で功臣までも殺したため、人々や宮廷の離反を招いた。亡命していたイブン・ムクラは陰謀を続け、近衛兵を味方につけた。934年4月24日、近衛兵は、酔っていたカーヒルを捕らえた。退位してラーディーに譲ることを拒んだカーヒルは、目を潰されて牢に入れられ、ラーディーが第20代カリフに就いた。
幽閉されたカーヒルには、没収した大臣たちの財産の隠し場所を聞き出そうとして拷問が加えられたが、口を割らなかった。ラーディーは方針を変え、歓待して泣き落とそうとしたが、これも失敗した。ラーディーの在位中、その存在は秘められ、噂も禁じられた。11年後、次のカリフであるムッタキーの時代に、宮殿の奥の部屋に閉じ込められていたところを見つけられたとも、幽閉が続いたともいわれる。ある日、礼拝中の民衆の前に現れ、カリフへの嫌がらせも兼ねて物乞いをし、そのため自由な外出を禁じられた。944年にムッタキーが同じように両目を潰されて退位させられたと聞くと、三人目の盲目のカリフが現れることを予言する詩をつくったという。晩年は物乞いとして暮らし、950年10月、53歳で死去した。
同じ年に亡くなった人物
- ロターリオ2世 (イタリア王) (950年没)
- ファーラービー (950年没)
- Konstantinos Lekapenos (950年没)
- ハウエル・ザー (950年)
- ゴーム老王 (950年代没)
同じ地域に関係する人物
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- イブン・ナディーム (990年没)
- ムハンマド・ナジーブ・アッ=ルバーイー (1965年没)
- ムクタディル (932年没)
- マスラマ・イブン・アブド・アル=マリク (738年没)