HISTORICAL PERSON · 950年没

ファーラービー

中世イスラームの哲学者・数学者・科学者・音楽家。アリストテレスに次ぐ「第二の師」と称され、ネオプラトニズムの影響を受けたアリストテレス研究で名高い。カザフスタンの紙幣に肖像が使われる。

生涯
950年没
死亡地
シリア共和国(ダマスカス県 / ダマスカス)
出生地
カザフスタン(オトラル)
出典
世界地図
シリア共和国(ダマスカス県)

伝記

ファーラービーは、中世イスラームの哲学者・数学者・音楽家である。正式名はアブー・ナスル・ムハンマド・イブン・ムハンマド・アル=ファーラービーで、生年は870年ごろとも872年ともされ、950年にダマスカスで没した。アリストテレスに次ぐ「第二の師」と呼ばれ、ヨーロッパではラテン語化した名アルファラビウスでも知られる。ネオプラトニズムの影響を受けたアリストテレス研究で名高い。カザフスタンで発行されたテンゲ紙幣には、その肖像が使われている。

生涯はほとんど知られていない。本人が生きている間に、具体的な情報をもつ者が記録を残さなかったとみられ、初期の情報は、論理学と哲学の歴史をたどる自身の自伝的な文章と、アル・マスウーディーやイブン・アン・ナディームらの短い記述に限られる。生地は中央アジアからホラーサーンにかけてのどこかとされ、通説では、現在のカザフスタンのオトラルにあたるファーラーブ、またはその近くの村ワスィジだという。出自についても、ペルシア系とする説とトルコ系とする説がある。古い伝記作家イブン・アブー・ウサイビアは父をペルシア系としたが、イブン・ハリカーンはトルコ人の両親から生まれたと述べた。ただし、この記述には追加されたニスバなどをめぐる批判があり、母語についてもソグド語とする提案がある。

若いころブハラで学んだとする記述もあるが、生涯の大半はバグダードで過ごしたとされる。自叙の一節によれば、キリスト教徒の教師ユハンナー・イブン・ハイラーンのもとで、ポルピュリオスの『エイサゴーゲー』、アリストテレスの『カテゴリアイ』『命題論』『分析論』などの論理学、医学、社会学を学んだ。少なくとも942年9月末まではバグダードにおり、その翌年の943年9月までにダマスカスで『有徳都市の住民がもつ見解の諸原理』を完成させた。のちにアレッポに住み、エジプトを訪れ、948年から949年にかけて同書を要約し、シリアへ戻ってハムダーン朝の統治者サイフ・ッダウラの庇護を受けた。簡素な暮らしを送り、政治から距離を置いてスーフィーの衣をまとっていたとも伝えられる。950年12月から951年1月にかけて、ダマスカスで没したとアル・マスウーディーは記している。

主な関心は論理学であったが、著作にはアリストテレス的でない要素も含まれ、仮言三段論法や類推的推論といったストア派論理学の伝統も論じた。アリストテレスの『詩学』に三段論法の概念を導入し、『命題論注解』を著した。イスラーム世界に哲学を導入して理解を深めようとし、真理の獲得こそが真の目的で、人はそれによって真の幸福を得られると説いた。『音楽の書』では音楽の哲学的原理を論じ、楽器の名手でもあったと伝えられる。『真空について』では、水中での吸引機を使った最初の実験を行ったとされ、完全な真空は不合理だと結論した。『都政論』や『有徳都市』では政治と社会について論じ、夢の原因を扱う論文も残した。

ファーラービー学派の創始者となったが、のちにイブン・スィーナー学派に影響力を譲った。それでも数世紀にわたって哲学と科学に大きな影響を及ぼし、その哲学は、のちのヨーロッパの普遍論争などにも下地を与えたとされる。

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