伝記
ゾイロスは、紀元前400年ごろに生まれ、紀元前320年ごろに没したとされるギリシアの文法家・弁論家・文芸批評家である。出身地は、当時トラキアと呼ばれた東マケドニアのアンフィポリスとされる。後年には「ホメロスの鞭打ち」を意味するホメロマスティクスという異名で呼ばれるようになった。ただし、エフェソスの生まれだとする伝えもある。
師弟関係については、はじめイソクラテスの弟子であったが、のちアテナイで弁論術を教えていたポリュクラテスに学んだとされる。ハリカルナッソスのディオニュシオスの著作では、ポリュクラテスの教えを受け、ランプサコスのアナクシメネスを弟子にもち、リュシアスを手本にした二流の弁論家の一人として描かれる。その弁論は穏やかで優美だと評価されたという。プラトンの文章に対する彼の批評も、節度があり公平だとディオニュシオスは述べている。プルタルコスの記述からは、デモステネスが彼の講義を聴き、弁論を集めたことがあるのではないかとも考えられている。アテナイオスも、彼を評価すべき弁論家・文法家としてたびたび引用している。
著作としては、『ホメロスの詩に反論する』(9巻の弁論)、神々の誕生からマケドニアのピリッポスの死までを扱う歴史(3巻)、『アンフィポリスについて』、『弁論家イソクラテスに反論する』などがあり、ホメロスを攻撃する弾劾文もその一つである。イソクラテスやプラトンがリュシアスの文体を非難したことに対しては、リュシアスを高く評価する立場から反論を書いたともいう。ホメロスへの攻撃は、とくに叙事詩に含まれる空想的な要素に向けられていた。ストラボンは、アルペイオス川をテネドス島に移してしまった誤りを挙げ、ホメロスを裁く資格を自任する者として許しがたいと責めている。偽ロンギノスは、オデュッセウスの部下が豚に変えられる場面を、彼が「めそめそ泣く子豚」と呼んだと伝える。クィンティリアヌスは、彼が修辞の「形象」の定義をやや狭くしすぎていると考えた。大プリニウスは彼をマケドニア人と呼び、自著の素材を借りた著者の一人に数えている。
死についてはさまざまな話がある。ウィトルウィウスによれば、彼はマケドニアからアレクサンドリアに来て、プトレマイオス2世に『イリアス』と『オデュッセイア』を批判した書物を読み聞かせたが、王は憤り、何も答えなかった。エジプトで長く暮らすうちに貧しさは極まり、再び王に救いを求めたという。その最期は、王が磔にした、ギリシア人が石打ちにした、スミュルナで生きたまま火に投じられた、と分かれている。ウィトルウィウスは、自分を弁護できない作家を中傷した者にはふさわしい罰だとみなした。ただし、磔の話は彼の悪名にもとづく作り話として退けるのが妥当とされる。スーダ辞典には、オリュンピアの人々が彼をスキロンの岩から突き落としたとあるが、この岩はメガラとコリントスの間にあり、本文が乱れている可能性が指摘される。
ガレノスは、彼をゼウスに張り合ったサルモネウスに喩え、ホメロスの像を鞭で打つほどだったと非難した。これを激しい批判の比喩と見る学者もいる。ゾイロスの名は、のちに悪意ある批評家の代名詞となった。セルバンテスは『ドン・キホーテ』の序文で彼を中傷者と呼び、「どの詩人にもゾイロスがいる」という諺も生まれた。しかし著作は残っておらず、この戯画化が正しいかどうかを確かめることはできない。
同じ年に亡くなった人物
- アナクサルケス (紀元前319)
- アンティパトロス (紀元前319年没)
- ランプサコスのアナクシメネス (紀元前319)
- アルケタス (オロンテスの子) (紀元前319年没)
- 恵王 (魏) (紀元前319年没)