伝記
ステファヌス7世は、928年末か929年の初めから931年まで在位した第124代ローマ教皇である。ステファヌスという名の教皇は数え方が一定せず、この人物をステファヌス8世と呼ぶ場合もあるが、現在の教皇庁と『教皇庁年鑑』は、928年に即位した彼をステファヌス7世として正式に認めている。生年は分からないが、ポルトガル語版の資料は880年ごろのローマの生まれとする。ローマ出身で、ゴート系のテオデムンドの子とされ、ローマの聖アナスタシア教会の枢機卿司祭を務めていた。
彼が教皇になった時代は、ローマの実権を女性貴族マロツィアが握っていた10世紀前半で、のちに「暗黒の世紀」と呼ばれる時期にあたる。先代のヨハネス10世はマロツィアの怒りを買って投獄され、殺されたともされる。その後を継いだレオ6世は在位半年余りで亡くなったが、殺害されたと伝える資料もある。ステファヌスは、マロツィアが自分の息子ヨハネスが教皇になれる年齢に達するまでのつなぎとして選んだ人物だったとみられ、選出にはトゥスクルム伯の一族の影響があったともいわれる。なお、ヨハネス10世がまだ生きていたときに選ばれているため、この就任を正当と言えるかどうかについては疑問も出されている。
在位の2年余りについて、確かなことはほとんど分かっていない。教皇として、フランスやイタリアのいくつかの修道院に特権を認めた。その中には、ヴォルトゥルノの聖ヴィンチェンツォ修道院やガリアの二つの修道院があったと伝えられる。教皇がウーゴ・ディ・アルルの圧迫を受けた際に自由の回復を助けたカンテ・ディ・ガブリエッリには、その報いとしてグッビオの教皇領総督の地位と、いくつかの要塞の支配権を与えた。また、道徳の乱れた聖職者に厳しく臨んだことでも知られる。12世紀のギリシア側の資料は、彼を、ひげを剃ったまま教皇として歩いた最初の人物と、敵意をこめて記している。実権はマロツィアにあり、教皇自身にはほとんど力がなかったとも評される。
931年3月15日ごろに亡くなった。2月に暗殺されたとする資料もあり、死因ははっきりしない。遺体はサン・ピエトロに葬られたとされる。後継の教皇には、マロツィアの息子ヨハネス11世が就いた。
同じ年に亡くなった人物
- ヒメノ・ガルセス (ナバラ王) (931年没)
- クリストフォロス・レカペノス (931年)
- Ibn Masarra (931年)
- 宇多天皇 (931年没)
同じ地域に関係する人物
- Giorgio Pessina (1977年没)
- イグナチオ・デ・ロヨラ (1556年没)
- ポセイドニオス (紀元前51年没)
- クィントゥス・トゥッリウス・キケロ (紀元前43年没)
- マリー=ジョセフィン・ゴーディト (2017年没)