伝記
クィントゥス・トゥッリウス・キケロは、共和政ローマ後期の政務官で、マルクス・トゥッリウス・キケロの弟である。ガリア戦争ではカエサルの副官の一人を務めた。生年は兄とそう離れておらず、紀元前106年の後半から前102年までの間とみられている。トゥッリウス氏はアルピヌムの騎士階級で、同市の有力者だった。一家は紀元前95年頃にローマへ移り、クィントゥスは兄とともに、クラッススら当代随一の雄弁家のもとで修業した。兄がギリシア、ロドス島、アシアへ遊学した際にも、親友アッティクスらとともに同行している。ただしアッティクス宛書簡集からは、兄ほど雄弁術を身につけていなかったことがうかがえる。
政務官になる前の記録は乏しい。おそらく紀元前68年頃に財務官を務めたが、任地には諸説ある。シチリアで兄のウェッレス弾劾の証拠集めを助けたという説などである。前65年にはカエサルと同時期に平民按察官を、前62年にも同時期におそらく首都法務官を務め、カティリナの陰謀に加わったブルッティウムの勢力を潰し、兄の『アルキアース弁護』の裁判を担当した。前61年からは前執政官格でアシア属州を担当した。評判はあまりよくなかったらしく、兄から、隣のマケドニア属州のオクタウィウスを見習うようにとたしなめられている。一方、按察官の祝祭の費用をアシア属州から徴収することをやめさせたことは、兄に褒められている。前58年5月に帰国したが、かなり金に困っていたようである。
この年、兄はクロディウスの法案によりローマを離れ、法的にも追放された。翌前57年、ポンペイウスが穀物供給の指揮権を5年間与えられると、クィントゥスはその副官の一人となってサルディニアを担当した。兄の帰還運動には労を惜しまなかったとみられ、兄は帰国後の元老院演説で感謝を表している。アシアで得た財産は、この運動などで使い果たしたと思われ、ポンペイウスの副官になったのも、帰還への協力の借りを返すためと考えられる。前56年6月にローマへ戻った。
紀元前54年、カエサル配下の副官としてブリタンニア遠征に参加した。借金を返すためと思われる。ガリアで諸部族が反乱を起こすと、ネルウィ族の地で冬営していたクィントゥスの軍団はアンビオリクスに包囲されたが、好意的なネルウィ族の一人がカエサルに知らせたため、カエサルがアンビオリクスを打ち破った。前53年には第14軍団を率いて、物資の集積されたアドゥアトゥカの守備に就いた。カエサルの遠征の隙に諸部族が集まり、兵糧収奪に出した大隊を攻撃されたが、負傷していた元筆頭百人隊長らの活躍もあって持ちこたえ、戻った徴発部隊が敵陣を突破すると、敵は包囲を諦めた。前51年からは兄がキリキアを割り振られ、その副官として赴いた。内戦で兄がポンペイウスについたことをカエサルから責められ、ファルサルスの戦いの後、クィントゥスは息子と共に兄との関係を数か月絶った。
紀元前44年にカエサルが暗殺された後、兄はオクタウィアヌスと手を結んでアントニウスを追い落とそうとしたが、オクタウィアヌスはアントニウス、レピドゥスと第二回三頭政治を組んだ。兄はアントニウスにより、法の保護の対象外に置くリストに載せられ、クィントゥスも同じくリストに入った。兄とともにブルトゥスのもとへ逃れようとしたが、前43年12月、アントニウス派の追っ手に殺害された。紀元前70年にアッティクスの妹ポンポニアと結婚したが、夫婦仲は悪く、兄やアッティクスが何度も仲裁に入ったものの、前45年に離婚した。エピクロス派だったと考えられている。
同じ年に亡くなった人物
- クィントゥス・ペディウス (紀元前43年没)
- デキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌス (紀元前43年没)
- ヘルウィウス・キンナ (紀元前43)
- ガイウス・カッシウス・ロンギヌス (紀元前73年の執政官) (紀元前 43年(推定))
- アウルス・ヒルティウス (紀元前43年没)
同じ地域に関係する人物
- トニーノ・ヴァレリ (2016年没)
- ボリス・クリストフ (1993年没)
- Eugenia of Rome (262年没)
- ガイウス・クラウディウス・マルケッルス・ミノル (紀元前40年没)
- ヨハン・フリードリヒ・オーファーベック (1869年没)