伝記
アレクサンドル2世は、1818年4月29日(ユリウス暦4月17日)に生まれたロマノフ朝第12代のロシア皇帝(在位1855年から1881年)である。ニコライ1世の長男で、母はプロイセン王女の皇后アレクサンドラ・フョードロヴナであった。幼いころから未来の皇帝として帝王教育を受け、ドイツ語、フランス語、英語、ポーランド語を身につけ、政府機関に勤めて軍事、外交、財政の教養を養った。1855年、クリミア戦争がセヴァストポリ要塞の激戦を迎える最中にニコライ1世が崩御して即位した。戦局は悪化の一途をたどり、翌1856年3月にロシアは敗北を認めてパリ条約を結んだ。
敗戦はロシアの支配階級に強い危機感を与え、経済発展や自由主義的な社会改革が国を救うと考えられた。アレクサンドル2世自身は、農奴制改革について「下から起こるよりは、上から起こった方がはるかによい」と述べ、西欧化の改革を慎重に採り入れて専制政治を延命させようとした。そのため自由主義者とは、最初から改革の見通しに食い違いがあった。1861年2月19日(グレゴリオ暦3月3日)に農奴解放令を発布し、約4,700万人の農民の管理が地主から政府の手に移ったため、地方自治機関ゼムストヴォが設置された。解放直後は不十分だとする不満が農民に根強く、成果が実感されたのは1860年代後半からであった。1864年には司法権が行政権から独立し、国家予算の一本化、徴税請負制の廃止、国立銀行の創設も行われた。教育では、1864年の初等国民学校令などで無償の基礎教育を保障し、1871年には女性が教員や公務員になることが許された。陸相ミリューチンのもとで軍事改革が進み、1874年には完全な徴兵制に移行した。
しかし改革は完全な安定をもたらさなかった。ポーランドでは1863年に一月蜂起が起こり、鎮圧に1年以上かかって自治権は失われ、ロシア化政策が強まった。1865年には改革を継ぐはずだった皇太子ニコライが21歳で急死し、改革は1860年代後半から反動化していった。外交では、外相ゴルチャコフの協力で国際協調を探り、1873年にオーストリアを含む三帝同盟が結ばれた。1877年にはブルガリア保護の名目でオスマン帝国に宣戦し、露土戦争に勝って1878年のサン・ステファノ条約を結んだが、列強の猛反発でベルリン会議では内容が大幅に修正された。アジアでは、アロー戦争に追われる清とアイグン条約や北京条約を結んで沿海州を得て、ウラジオストクを建設した。トルキスタンではブハラ・ハン国とヒヴァ・ハン国を保護下におき、コーカンド・ハン国を滅ぼした。1867年にはアラスカを720万ドルでアメリカに売却し、1875年には樺太・千島交換条約を結んだ。
私生活では、1841年にヘッセン大公の末娘マリーと恋愛結婚し、6男2女を儲けた。1866年からはエカチェリーナ・ドルゴルーコヴァ公爵令嬢と関係を持って4人の子をもうけ、1880年5月に皇后が没すると、周囲の反対を無視して再婚した。1880年2月には冬宮食堂の爆破事件が起き、ロリス=メリコフを委員長とする委員会が置かれて、行政・財政改革案が示された。1881年3月13日、アレクサンドル2世は「人民の意志」党員の投げた爆弾でペテルブルクの市内で暗殺された。その当日に皇帝の承認を得たばかりのロリス=メリコフの改革案は、白紙に戻された。
同じ年に亡くなった人物
- ニコライ・ピロゴフ (1881年没)
- ジェームズ・ガーフィールド (1881年没)
- エルコレ・デンボウスキー (1881年没)
- モデスト・ムソルグスキー (1881年没)
- Gregory VI (1881年没)
同じ地域に関係する人物
- デニス・フォンヴィージン (1792年没)
- アレクセイ・フョードロヴィチ・オルロフ (1862年没)
- エカチェリーナ・イオアノヴナ (1733年没)
- ミハイル・マチューシン (1934年没)
- マリア・フョードロヴナ (パーヴェル1世皇后) (1828年没)