伝記
ジェームズ・エイブラム・ガーフィールドは、1831年11月19日、オハイオ州クリーブランドの南東、カヤホガ郡オレンジ郡区(現在のモアランド・ヒルズ)の丸太小屋で、5人兄弟の末っ子として生まれた。名は父エイブラムと年長の兄ジェームズ・バルーに由来する。父は大きな体躯でレスラーとして地域に知られたが、息子が17か月のとき、1833年に亡くなった。ウェールズに祖先を持つ彼は、母イライザ・バロウとおじに育てられた。母は「彼は私が育てた最も大きな赤ん坊で、赤いアイルランド人のように見えた」と語ったという。1833年に両親が加わったディサイプルス教会は、のちに息子へ深い影響を及ぼした。
地元の学校に入ったが、16歳で自ら退学して船員となり、クリーブランド近くの運河で6週間働いた。病気で帰宅を余儀なくされ、回復後はジアーガ・アカデミーに入学して、生涯続く学問へのインスピレーションと、学ぶことと教えることの両方を得た。後年には、貧困のなかで幼年期を過ごし、何かに心を捕らわれる前に17年が過ぎてしまったと嘆いたという。1850年には教会への礼拝を再開して洗礼を受けた。1851年から1854年まで、オハイオ州ハイラムのウエスタン・リザーブ折衷学研究所(後のハイラム大学)で学び、プラット・ロジャース・スペンサーの指導のもとでギリシャ語とラテン語の研究に最も興味を示した。在学中から教壇に立ち、隣接する教会で説教を行って、1回につき1ドルの報酬を得た。その後マサチューセッツ州のウィリアムズ大学に移り、科学以外のすべての科目で優をとって1856年に卒業した。卒業後は折衷学研究所の教員となり、古語の教授を経て、1857年から1860年まで所長を務めた。
1858年11月11日にルクレティア・ルドルフと結婚し、5人の子をもうけた。息子ジェームズ・ルドルフは政治家となり、セオドア・ルーズベルトの下で内務長官に就いた。1859年にオハイオ州議会議員に選ばれて政界に入り、法律を学んで1860年に法曹界入りを認められた。南北戦争が始まると北軍に入り、第42オハイオ志願兵連隊の指揮官となって、東ケンタッキーから南部連邦軍を排除する任務を与えられた。1862年1月9日にはミドル・クリークの南軍に攻撃を命じたが、南軍は戦場から撤退した。この戦闘での功績が認められ、4月にはシャイローの戦いに参加し、チカマウガの戦いにも加わって、最終的に少将にまで昇った。奴隷制と南部諸州の連邦離脱に反対し、1863年に共和党員として下院議員に選ばれ、1878年まで2年ごとに再選を重ねた。この間、グラント政権下の鉄道利権をめぐる収賄事件「クレディ・モビリエ事件」で容疑者の一人に名を連ねたが、議員辞職はしなかった。
1880年の大統領選では、グラント、ブレイン、シャーマンら共和党の主な候補者が指名に必要な代議員を得られないなかで、妥協の産物として党の候補に指名され、本戦で民主党のハンコックに勝利した。就任演説では多くの官庁改革を提案し、その大半は後継者アーサーのもとでペンドルトン公務員改革法(1883年)として実現した。1881年7月2日、ワシントンの鉄道駅で、官職を得られず彼を恨んだチャールズ・ギトーに銃撃された。弾丸は体内で見つからず、アレクサンダー・グラハム・ベルが探知機を考案したが、成功しなかった。感染症で病状が悪化し、9月19日にニュージャージー州エルバロンで亡くなった。在任は6か月と15日にすぎず、暗殺された2人目の大統領となった。
同じ年に亡くなった人物
- ルイ・オーギュスト・ブランキ (1881年没)
- アーダルベルト・クーン (1881年没)
- ジョージ・W・デロング (1881年没)
- 田中久重 (1881年没)
- ニコライ・ルビンシテイン (1881年没)
同じ地域に関係する人物
- ジェイコブ・ヴァイナー (1970年没)
- ヘンリー・ヴァン・ダイク (1933年没)
- アリス・ポール (1977年没)
- サムナー・ウェルズ (1961年没)
- リッチー・ヘブンス (2013年没)