伝記
コンスタンティノス4世は、東ローマ帝国ヘラクレイオス王朝の皇帝(在位668年~685年)である。650年頃に生まれ、コンスタンス2世と皇后ファウスタの長男であった。「ポゴナトス(髭の者)」のあだ名で呼ばれることがあるが、これは父のあだ名が戦乱による記録の混乱で息子のものと混同されたものである。
654年4月、父によって共同皇帝に任じられた。661年に父がシチリア島へ向かってコンスタンティノポリスを発ったとき、コンスタンティノスと弟たちは元老院などの反対によって都に留まった。この時期から統治に関わり始め、都でアラブ人の攻撃やサボリオスの反乱に直面したとされる。668年に父が暗殺され、シチリア島でミジジオスが皇帝を名乗ると、自ら艦隊を率いて遠征し、反乱を鎮めた。このとき西ヨーロッパへ向かったとする史書もあるが、伝説であろうとされる。同じころ小アジアでは、テマ・アルメニアコンの長官サボリオスがウマイヤ朝と結んで反乱を起こしたが、これも鎮圧している。
即位後の最大の課題は、ウマイヤ朝の圧力であった。ムアーウィヤは661年のウマイヤ朝成立以来、小アジアや地中海、アフリカで帝国領への侵入を重ねていた。669年にはイスラーム軍が首都の対岸カルケドンまで進出し、艦隊もエーゲ海からマルマラ海に入って、673年にはキュジコス半島を前線基地とした。674年から678年まで続いたコンスタンティノポリス包囲戦では、イスラーム軍が主に夏季に海陸から攻略を目指したが、都を完全に包囲できず、失敗に終わった。この戦いでは「ギリシアの火」が初めて実戦で使われたようである。8世紀以降は帝国の秘密兵器となるが、最初に用いたのはウマイヤ朝側だった可能性が最近指摘されている。679年にムアーウィヤはロドス島を制圧したが、680年にムアーウィヤが没すると、後継者のヤズィード1世は和約を結んで同島から撤退した。683年にヤズィード1世が没してウマイヤ朝が内戦に陥ると、戦いは沈静化した。アフリカでも同年、イスラーム軍は現地の人々と東ローマ軍の連合軍に惨敗し、カイラワーンを放棄してキレナイカまで退いたという。
脅威が和らぐと、他の懸案に取り組んだ。ブルガール人のバルカン進出に対し、680年に自ら遠征したが、アスパルフ率いる軍に敗れ、681年にドナウ川下流域の領土を与えて植民も認めざるを得なくなった。これが第一次ブルガリア帝国の始まりとされる。イタリアでは680年頃にランゴバルド王国と和約を結んだ。また680年から681年にかけて第3コンスタンティノポリス公会議を開き、単性論・単意論を断罪した。父の時代までのようにオリエントの信者に配慮する必要がなくなったためである。この会議は、東西教会の和解という政治的成功ともなった。
681年には共同皇帝だった二人の弟からその地位を奪い、鼻を削いだ。後継者ユスティニアノス2世を含む二人の息子は共同皇帝にせず、685年に没するまで単独の皇帝として君臨した。没したのは9月14日とされるが、7月から9月の間とする説もある。同時代の史料が乏しく、記録の多くを後代のテオファネスの年代記に頼るため、治世の評価には限界があるものの、ビザンツの史料では、都を守った勝利と正統信仰の擁護者としての役割から、概して好意的に描かれている。
同じ年に亡くなった人物
- ホロスヘア (685年)
- マルワーン1世 (685年没)
- アナニア・シラカツィ (685年)
- エグヴリス (685年)
- 聖フィリベール (685年(推定))
同じ地域に関係する人物
- キャーティプ・チェレビー (1657年没)
- レオンティオス (706年没)
- アーリ・パシャ (1871年没)
- テオファノ・マルティナキオス (897年没)
- アブデュルハミト1世 (1789年没)