伝記
メフメト5世は、1844年11月2日にコンスタンティノープルのチラガン宮殿で生まれた、オスマン帝国の第35代皇帝(在位1909年から1918年)である。本名はメフメト・レシャートといい、父は皇帝アブデュルメジト1世、母はギュルジェマル・カドゥンだった。母が1851年に亡くなると、姉たちとともに父の筆頭妃のもとで育てられた。教育は宮殿内で受けたが、側近は貧弱な教育だったと述べている。もともと聡明だったため、受けた教育をよく生かし、アラビア語とペルシア語を学んで、ペルシア語をよく話した。ピアノや書を習い、ペルシア文学のほか、メヴレヴィー教団のスーフィズムにも関心を持った。
1876年に異母兄アブデュルハミト2世が即位すると、皇太子となったが、実際にはドルマバフチェ宮殿でほとんど軟禁され、厳しく監視された。アブデュルハミトは、迷信的な理由もあって弟を忌み嫌ったと言われる。弟の邪視を恐れ、弟が祝賀に訪れて去った直後に、祈りや香を焚くことまでしたという。しかしアブデュルハミトには、亡命した青年トルコ人と文通していた弟を疑う、根拠のある理由もあった。1908年の青年トルコ人革命でさまざまな制限が緩むと、メフメト・レシャートは、憲法を祝う式典に参加して人気を得た。
1908年の青年トルコ党の蜂起と、翌1909年の三月三十一日事件の結果、異母兄アブデュルハミト2世は廃されてサロニカに幽閉された。メフメト・レシャートは同年4月27日に、その後釜として擁立された。六十五歳での即位は、オスマン帝国の歴代の皇帝で最も高齢で、彼は大部分を象徴としての皇帝にとどまり、実質的な政治権力を持たなかった。皇帝の権力に制限を加える方向で、非常大権条項の削除などの憲法改正が行われたが、新たに召集された議会で、統一進歩派と一致自由派が対立し、政府内部はまとまらず、社会不安が続いた。1911年にはイタリアとの戦争が発生し、北アフリカのトリポリとキレナイカを占領され、ロドス島なども奪われて、1912年12月に休戦し、これらの地域を割譲せざるを得なくなった。
敗戦のさなか、1912年8月にアルバニアで反乱が起こり、これに付け込んだギリシア、セルビア、ブルガリア、モンテネグロの四国が同盟して宣戦した。第一次バルカン戦争でオスマン軍は大敗し、イスタンブール周辺を除くヨーロッパの領土のほとんどとクレタ島を割譲し、アルバニアの独立も承認した。しかし1913年6月にマケドニアをめぐってブルガリアがセルビアとギリシアに争いを始めると、セルビアとギリシア側について、トラキア地方を取り戻した。この第二次バルカン戦争で活躍したエンヴェル・パシャが国政の実権を掌握し、ドイツと同盟を結んだ。
1914年7月に第一次世界大戦が始まり、同年10月にドイツ側で参戦した。11月にイギリス、フランス、ロシアが宣戦してくると、キプロス島を奪われ、エルズルムやトラブゾンを占領されるなど、敗戦を重ねた。1915年から1916年には、アルメニア人虐殺が起こった。これは、皇帝の意に反して統一進歩委員会が始めたもので、皇帝は私的に政府の行動を非難したが、何の影響もなかったとされる。一方、ガリポリ半島への連合軍の侵攻は、ムスタファ・ケマルらが撃退し、このお陰でイスタンブールは死守され、皇帝も安寧を保てた。1916年2月には、同盟国ドイツから元帥位を授与された。戦局が悪化するなかでも、メフメト5世には具体的な行動に出る政治力はなく、1918年7月3日、七十三歳で崩御し、弟のメフメト6世が跡を継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后) (1918年没)
- ルドルフ・トビアス (1918年没)
- コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ (ロシア公) (1918年没)
- Michel Zevaco (1918年没)
- フランク・ヴェーデキント (1918年没)
同じ地域に関係する人物
- ニキフォロス1世 (コンスタンディヌーポリ総主教) (828年没)
- パルガル・イブラヒム・パシャ (1536年没)
- ファフリ・コルテュルク (1987年没)
- スィナン・パシャ (1553年没)
- ザロ・アガ (1934年没)