HISTORICAL PERSON · 892年没

ムウタミド

アッバース朝カリフ。長期化したザンジュの乱を弟ムワッファクの活躍で鎮圧したが、王朝の権威低下は避けられなかった。

生涯
892年没
死亡地
イラク共和国(サラーフッディーン県 / サーマッラー)
出生地
イラク共和国(サーマッラー)
出典
世界地図
イラク共和国(サラーフッディーン県)

伝記

ムウタミド(842年〜892年)は、アッバース朝の第15代カリフ(在位870年〜892年)である。正式な名はアブル・アッバース・アフマド・イブン・ジャアファルといい、ムウタミドは即位名で「神に頼る者」を意味する。第10代カリフ、ムタワッキルの子で、母はクーファ出身の奴隷女性ファティヤーンであった。母にちなんでイブン・ファティヤーンとも呼ばれた。

若い頃はサーマッラーで育ち、兄や従兄弟たちが次々にカリフとなった時期には政治に関わらなかった。父ムタワッキルは861年12月、トルコ系の親衛兵に殺された。その後は異母兄ムンタスィル、従兄弟ムスタイン、兄弟のムウタッズが続き、ムウタッズが869年に退いたあとは従兄弟のムフタディーが約1年在位した。ムフタディーがトルコ系の武将たちに廃され、処刑されたのち、軍に選ばれたアフマドが870年6月にムウタミドの名でカリフに宣言された。これにより、861年から続いた「サーマッラーの無政府状態」は終わったとされる。

しかし即位の時点で、地方に対するカリフの権威は崩れていた。エジプトはトルコ人武将アフマド・イブン・トゥールーンの手に落ち、ホラーサーンなど東方はサッファール朝のヤアクーブ・イブン・ライスに奪われ、イラクでも奴隷の反乱であるザンジュの乱が拡大しつつあった。前年から南イラクで起きたこの乱は年々大きくなり、討伐軍を送っても撃退された。東ではヤアクーブが873年にターヒル朝を滅ぼしてカリフと対立した。ムウタミドはヤアクーブの権限を認めず、ヤアクーブはファールスを突破してバグダードへ進んだが、876年の戦いでアッバース朝軍に敗れ、イラクから退いた。この混乱に乗じて、トゥールーン朝は877年にシリアへ進軍し、シリアからキリキア、ジャズィーラに及ぶ広い領域を併合した。

カリフ自身は政治の経験も、頼れる支持基盤も持たなかった。実権を握ったのは弟のアブー・アフマド・タルハで、のちにムワッファクの称号を帯びた。軍の忠誠を得ていた彼は、ムウタミドが即位した直後にメッカからサーマッラーへ急ぎ、ムーサー・イブン・ブガーとともにカリフを脇に退けて政務を握った。ムワッファクは西アラビア、バグダードを含む南イラク、ファールスなど、カリフの権威の及ぶ土地の大半の総督に任じられた。ムウタミドに残された数少ない権限は、自分で宰相を選ぶ権利であった。ザンジュの反乱軍は独立政権を築くまでになり、879年にはバグダードの南90キロにまで迫った。880年、ムワッファクが討伐軍の総司令官に任命されて反撃に転じ、883年8月に反乱を制圧した。しかし、14年にわたり中心部が奴隷の反乱軍に占拠されたことはアッバース朝の権威に致命的な打撃となった。ペルシア湾交易は一時途絶え、イラク南部の都市や田園は荒廃して、元に戻らなかった所も多い。反乱鎮圧のためサーマッラーがほとんど空になったことを機に、都は再びバグダードに置かれた。

882年末にはアフマド・イブン・トゥールーンの支配地へ逃れようと試みて失敗し、弟によって軟禁され、権限はさらに狭められたとされる。ムワッファクとの対立は続いたが、晩年には甥のアブル・アッバース、のちの第16代カリフ、ムウタディドを執政に任命した。891年にムワッファクが死ぬと、側近らがカリフに権力を戻そうとしたが、ムワッファクの子ムウタディドにすぐ抑えられた。ムウタミドは892年10月14日にバグダードで病死し、ムウタディドがカリフを継いだ。

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