HISTORICAL PERSON · 1871年没

シャミール

アヴァール人の宗教指導者。イマーム国の第3代イマームとして、ロシア帝国の北カフカース支配への抵抗戦争を率いた。血の復讐の慣習を廃してシャリーアの司法を整え、1859年にグニブで追い詰められた。

生涯
1871年没
死亡地
サウジアラビア王国(マディーナ州 / マディーナ)
出生地
ロシア連邦(Gimry)
出典
世界地図
サウジアラビア王国(マディーナ州)

伝記

シャミールは、1797年6月26日に生まれ、1871年2月4日に没した、ロシア帝国の北カフカース支配に対するムスリムの抵抗戦争を率いたアヴァール人の宗教指導者である。ダゲスタンとチェチェンに建設されたイマーム国の第3代イマームを務めた。今も北カフカースのムスリムの尊敬を集めており、ロシアの支配に対する抵抗運動の精神的な支柱となっているという。現在のダゲスタン共和国のギムラ村に生まれ、父デンガフ・マホメドは村の鍛冶屋だった。同志とともにクルアーンとシャリーアを学び、スーフィズムの影響を強く受けた。

1830年、マホメドが現地代表者の会議でガジ(信仰の戦士)の名を与えられて初代イマームとなったが、1832年にロシア軍が故郷のギムラ村に侵攻した際、ダゲスタン人の抵抗の中で戦死した。これを継いで第2代イマームに選出されたガムザト=ベクも1834年にモスクで暗殺されたため、同年、アシリト村で開かれた会議でシャミールが第3代イマームとなった。彼は改革者としてイマーム国家の基盤を整備し、国土をナイーブが管轄する行政・軍事の単位に区分して、ウラマー会議を国家の最高機関とした。兵制は正規軍と後備軍からなり、階級制度が確立された。カフカーズ諸民族に特有の血の復讐の慣習は廃止され、代わりにシャリーアに基づく司法制度が整えられた。約1,000人のムルタゼク軍団はイマーム個人の親衛隊であり、現地情報の収集や不穏分子の処刑にあたる一種の秘密警察でもあった。1834年に全山岳ダゲスタンがシャミールの支配下に入り、1840年にはチェチェンのイマームともなった。権力が確固たるものとなるまではロシアに中立的な立場をとり、1843年末になって初めて行動を開始した。

首都アフリゴの防衛戦は数か月に及び、ロシア軍司令官パーヴェル・グラッベ中将は、全員の生命の保証と交換に、長男ジャマルディンを人質に出すことと、シャミール自身の投降を要求した。シャミールは交渉を拒んだが、数日間の戦闘の後、無用な流血を避けるため息子を引き渡した。投降の要求は退け、戦闘が再開してアフリゴは陥落したが、彼は小部隊を率いてチェチェン領内に撤収できた。ジャマルディンはロシアに連れ去られて幼年学校に入り、15年間を過ごした。1854年にシャミールはグルジアのカヘチアに遠征し、大公の妻子らを捕虜にして、丁重にもてなした。息子を取り戻す取引材料としてであり、1855年3月10日に捕虜交換が行われて父子は再会した。しかしロシア流の教育を受け、後に和平を主張したジャマルディンは、故郷の理解を得られなくなっていった。

1857年、アレクサンドル2世はバリャチンスキー大公をカフカーズ副王に任命した。大公は大規模な軍事行動のほか、買収という手段も活用し、シャミールの元からは人々が次第に離れた。1859年8月、彼はグニブ山に兵士400人と大砲4門で立てこもったが、8月25日に投降を勧告されて従わざるを得なかった。9月15日、ハリコフ郊外でアレクサンドル2世に謁見し、金のサーベルを贈られた。ロシアの各都市では「カフカーズのナポレオン」として歓迎された。晩年はメッカ巡礼を願い、1866年にロシアへの忠誠を宣誓、1868年末にキエフへ移り、1869年に許可を得て、イスタンブール経由でメッカへ向かった。1871年にマディーナで没し、遺体は同地に葬られた。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物