HISTORICAL PERSON · 713年没

アリー・ザイヌルアービディーン

シーア派の第4代イマームで、フサインの子、預言者ムハンマドの曾孫。母はサーサーン朝最後の王の娘とする伝承があり、サッジャードとも呼ばれる。

生涯
713年没
死亡地
サウジアラビア王国(マディーナ州 / マディーナ)
出生地
サウジアラビア王国(マディーナ)
出典
世界地図
サウジアラビア王国(マディーナ州)

伝記

アリー・イブン・フサイン・ザイヌルアービディーンは、658年1月4日に生まれ、713年10月20日に没した、シーア派の第4代イマームである。フサイン・イブン・アリーの子で、預言者ムハンマドの曾孫にあたる。ザイヌルアービディーンは、シーア派の間で冠せられた名で、「崇拝者らの宝飾」を意味し、イマーム・サッジャードとも呼ばれる。生まれた場所はマディーナで、父のフサインは、大部分のシーア派ムスリムが第3代イマームと認めるムハンマドの孫である。

母については、シーア派に、サーサーン朝の末帝ヤズデギルド3世の娘シャフルバヌーだとする伝承がある。この信仰から、彼は「最良の二つの息子」とも呼ばれた。「二つ」とは、アラブにおけるクライシュ族と、非アラブにおけるペルシア人、とりわけサーサーン帝室を指すという。伝承の一つによれば、母は捕虜としてマディーナへ連行された。第2代カリフのウマルは、彼女を売ろうと考えたが、アリー・イブン・アビー・ターリブが、代わりにムスリムの誰かを夫に選ばせ、婚資は公金から出すことを提案し、ウマルも同意した。彼女が選んだのが、アリーの息子フサインだったとされる。母は、一人息子である彼を産んだ直後に亡くなったという。ほかに、母をヤズデギルドの娘とする複数の伝承が、サファヴィー朝期以降の伝記にも記されているが、いずれも伝説的な性格が強い。祖父のアリーが亡くなったとき、彼はおよそ2歳だった。

生涯を学びにささげ、預言者のハディースとイスラーム法の権威となった。『サヒーファ・アッ・サッジャーディーヤ』は、シーア派で『クルアーン』、『雄弁の道』に次いで権威ある書物とされるが、その情報源は彼だという。サイード・イブン・ジュバイルのような、忠実な支持者も多かった。シーア派の人々は、その高潔な品格と敬虔さを高く評価し、生前から「ザイヌルアービディーン」の号を得ていたと考えられている。別の伝承は、ある日、彼が礼拝中に、悪魔が足の指に噛みついて妨げようとしたが、彼は礼拝をやめず、「汝は礼拝者の中で最良の者なり」という叫び声が聞こえたことが、この名の由来だと語る。

アーシューラーの日、すなわちカルバラーの戦いでは、父フサインをはじめ、彼の家族の多くが死に追いやられた。彼は病弱で、病の床に伏して戦いに加わらず、結果として生き残った。戦いの後、ウマイヤ朝の捕虜としてダマスクスへ連行され、カリフのヤズィード1世の虜囚として過ごした。数年後に釈放されると、マディーナに戻り、学者として、師として、静かな生涯を送った。20年もの間、食物を供されるたびに涙を流したという。従僕が、あなたの悲しみの時は終わったのではないかと尋ねると、彼は、預言者ヤアクーブでさえ、12人の息子のうち1人を失っただけで、嘆きのあまり目が白く曇ったのだと答えた。自分は父、兄弟、叔父ら17人もの縁者を惨たらしく失ったのに、どうして悲しみが終わるのか、と。

ヒジュラ暦94年か95年(西暦712年から714年)に没するまで、マディーナに住んだ。死については、カリフのワリード・イブン・アブドゥルマリクによる毒殺だとする主張もある。遺骸は、イスラーム史上の重要人物が葬られる、マディーナのジャンナトゥル・バキー墓地に葬られた。彼のイマーム職を誰が継いだかという問題は、シーア派の分派につながった。十二イマーム派やイスマーイール派はムハンマド・バーキルの継承を認め、少数の人々は、その兄弟ザイド・ブン・アリーの継承を奉じて、ザイド派と呼ばれる。

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