伝記
エルフワルド1世(アルフワルド)は、ノーサンブリア王(在位779年〜788年)である。759年から767年の間に生まれたとされ、オズウルフの子、つまりエアドベルト・エーティングの孫と考えられている。祖父エアドベルトは737年から758年まで王位にあり、父オズウルフは758年に即位したが、数か月後に自分の家の者たちに殺された。後を継いだエセルワルド・モルは王家の出ではなく、ここから、複数の家系が権力を争い、王がたびたび廃位され、殺される時代が始まった。
778年から779年にかけて、エセルワルド・モルの子エセルレッドが廃位され、王位はエルフワルドのもとに戻った。治世の政情は落ち着かず、780年12月24日には、領主のオスバルドとエセルヘアドが、「パトリキウス」(王の最有力な家臣に当てられた称号とみられる)のベアルンをセレトゥーンで焼き殺した。この地は、北ヨークシャーのソルトンかとされる。エセルレッドは、エルフワルドとその後継者オスレッド2世の治世のあいだ、亡命を強いられた。エルフワルドは良質の貨幣を鋳造させ、その種類は多岐にわたる。
教会との関係は密接であった。780年にヨーク大司教エセルベルトが没すると、その後継エアンバルド1世のためにパリウムを授かるべく、ローマへ使節を送った。この使節として派遣されたのは修道士アルクインだともいわれる。同じころ、ヘクサムの司教エアルムンドも没し、ティルベルトが代わった。786年には、教皇使節のオスティア司教ゲオルギウスが開いた大きな会議に参加した。この会議の決定は、王や司教、主な領主たちによって承認され、王は嫡出の生まれでなければならないとし、王を殺す者を呪うものであった。決定は、のちにマーシア王オファにも受け入れられたという。王は敬虔で公正な人物とされたが、同時代のアルクインは、風紀の乱れが増していることも書き残している。アルクインは書簡の中でエルフワルドにかなり批判的であり、ノーサンブリアでキリスト教的な習俗が衰え始めたのは、その治世だとみている。
788年9月23日、エルフワルドは領主(パトリキウスともされる)のシッガが率いた陰謀によって殺された。場所は、ハドリアヌスの長城の近くにある、はっきりしない地点のスキュトレスケスターとされ、現在のチェスターズだったとみられる。シッガは、786年の会議の決定を承認した者の一人でもあった。遺体はヘクサム修道院に葬られ、そこで聖人として崇敬された。殺害の場所に天からの光が現れたと年代記は伝え、その地に教会が建てられたという。ヘクサムを中心に、エルフワルドを敬う信仰も広がった。ダラムのシメオンの『諸王の歴史』にも、聖人として記されている。
後を継いだのは、いとこ(または甥ともされる)のオスレッド2世である。オスレッドはアルレッドとオスギフの子で、オスギフはエアドベルトの娘とされる。一方で、オスギフはエルフワルドの姉妹(または叔母)で、先王アルレッドに嫁いだ人であり、その子オスレッド2世の在位は788年から790年だったともいわれる。エルフワルドにはエルフとエルフウィネという2人の息子がいたが、まだ幼かったため後継者とならなかったとみられる。790年にエセルレッドが王位に復帰すると、791年、エルフとエルフウィネは王位を争う者として、ヨークから連れ出され、ウィンダミア湖畔のウォンワルドレメレで殺された。
同じ年に亡くなった人物
- 劉長卿 (788年(推定))
- シャーンタラクシタ (788年)
- アブド・アッラフマーン1世 (788年没)
- アダルギス (788年)
- 馬祖道一 (788年没)
同じ地域に関係する人物
- ヘンリー・ボーフォート (第3代サマセット公) (1464年没)
- プリドー・ジョン・セルビー (1867年没)
- レイ・ケネディ (サッカー選手) (2021年没)
- ダンカン2世 (スコットランド王) (1094年没)
- マルカム3世 (スコットランド王) (1093年没)