伝記
馬祖道一は、中国の唐代の禅僧である。諡は大寂禅師、俗姓は馬。709年、漢州什邡県(現在の四川省、成都の北西)に生まれた。生家は箕(み)を作る家だったという。日本では馬祖道一(ばそ どういつ)と呼ばれる。710年代に、地元の羅漢寺の資州の処寂(648年〜734年)のもとで出家し、729年には巴西で受戒した。益州の長松山などで禅の修行を重ねたのち、湖南省の衡山にある南嶽へ向かい、懐譲の法を嗣いだ。これは730年代のことである。その後、江西省の洪州開元寺に移って法を広め、773年ごろにはここで教えを説いていた。江西で長く教えたことから「江西道一」とも呼ばれ、江西省南部の龔公山に寺を開いて多くの弟子を集めたとも伝えられる。
「馬祖」という呼び名は、後世の禅僧に見られる道号とは異なり、道一の俗姓である馬氏に由来する。日本語に直せば「馬おじさん」「馬家の師匠」と呼ぶのに近い響きだという。柳田聖山が「純禅」と呼ぶ、初期の禅宗徒の気風を示すものとされる。故郷にまつわる逸話もある。悟りを開いて名声を得たのち、故郷に帰ったところ、近所の老婆に「偉い坊さんが来たと思ったら、箕の屋の小せがれではないか」と言われ、それきり故郷には帰らなかったという。
その禅は馬祖禅とも呼ばれる。経典や観心によらず、日常生活の中にこそ悟りがあるとする大機大用の禅を、禅宗で初めて説いたとされ、「平常心是道」「即心是仏」など、一言で悟りを表す名言を数多く残した。仏性は働きとして現れ、その働きは仏性と同じだと説き、「理と事に違いはなく、どちらも妙用である」とも語ったという。また、相手に応じて教え方を変える対機説法を始めたとされ、これによって多彩な弟子を育てた。さらに唐代の士大夫階級に多くの信者を得て、ついには禅の正系の座を荷沢宗から奪ったといわれる。その禅風は、怒鳴ったり打ったりして弟子を悟りに導く、衝撃的な手法を伴うものとして伝わる。のちに禅の師が奇妙で非合理にふるまうという通念が広まったのは、この手法に加え、後世の誤解や翻訳の誤りも一因とされる。「喝」と大声で叫ぶという解釈もその一例だという。仙厓の「馬祖・臨済画賛」によれば、臨済の師としての馬祖の一喝は、3日間も耳を聾するほどだったという。
こうして一大宗派の洪州宗が築かれた。馬祖は禅の形成に最も影響を与えた師の一人とされ、安史の乱(755年〜763年)で唐の統制が緩むと、都の禅が地位を失う一方で、辺境の地に新たな流れが興った。洪州宗はその流れの中にあり、唐代は禅の黄金時代とみなされる。伝統的には、師の懐譲が慧能の弟子とされることから、馬祖も慧能の系譜に連なると描かれるが、この結びつきは疑わしく、後に禅の歴史が書き換えられた結果とされる。百丈懐海、南泉普願、大梅法常、塩官斉安、西堂智蔵、大珠慧海、帰宗智常、麻谷宝徹など、法を嗣いだ弟子は88人を数える。それぞれが数多くの語録を残したため、後の禅宗に語録を重視する傾向が生まれ、やがて公案を重視する臨済宗へと発展した。馬祖自身の教えと問答は『江西道一禅師語録』(『馬祖大寂禅師語録』)にまとめられている。845年から846年の武宗による仏教弾圧は、都の禅に大きな打撃を与えたが、馬祖の系統は生き延び、唐代後期の禅の中心となった。
馬祖は788年、江西省宜春市靖安県の石門山宝法寺で示寂し、大寂禅師と諡された。現在も出身地の四川省では、馬祖学会が時おり開かれている。