HISTORICAL PERSON · 788年没

アブド・アッラフマーン1世

後ウマイヤ朝の初代アミール。アッバース朝による虐殺を逃れてイベリア半島へ渡り、756年にコルドバで即位して後ウマイヤ朝を建てた。

生涯
788年没
死亡地
スペイン王国(コルドバ県 / コルドバ)
出生地
シリア共和国(ダマスカス)
出典
世界地図
スペイン王国(コルドバ県)

伝記

アブド・アッラフマーン1世は、後ウマイヤ朝の初代アミール(在位756年〜788年)である。「移住者」を意味するダーヒルの異名でも知られる。ウマイヤ朝の第10代カリフ・ヒシャームの孫にあたり、731年に生まれた。パルミラの生まれで、父はウマイヤ家の王族ムアーウィヤ・イブン・ヒシャームであったとされる。生母はベルベル人の女性で、後代のアンダルスの史書には、ナフザ族の出身のラーという名の女性だったと記されるが、同時代の8世紀の史料には母の名は見えない。

748年から750年にかけてのアッバース革命でウマイヤ朝が倒されたとき、彼は20歳前後であった。王族の多くが虐殺されるなか、弟のヤヒヤ、幼い息子スライマーン、姉妹の一部、ギリシア系の解放奴隷ベドルらとともにダマスクスを脱出した。アッバース朝は騎兵を各地に放って王子を捜させ、一行は名前を変え変装しながら逃れたという。潜んでいた村に追手が迫ると、幼い息子を姉妹に託し、ヤヒヤと逃げ出した。ユーフラテス川の岸で追いつかれ、川に飛び込んだが、追手の呼びかけに応じて岸へ戻ったヤヒヤはその場で殺害された。アブド・アッラフマーンはベドルとともに生き延び、パレスチナ、シナイ、エジプトを南下して、母の故郷である北西アフリカをめざした。

イフリーキヤの総督イブン・ハビーブは、一時はウマイヤ家の亡命者を受け入れたが、やがて彼らが自分の権力を脅かすことを恐れ、755年ごろに手を回して探索を始めた。二人はカビリア地方のナフザ族の族長の陣営に身を寄せており、族長の妻が持ち物の下に王子を隠して追手をやり過ごしたと伝えられる。彼は金髪で緑色の瞳をしていたとされ、母の血筋もあってベルベル人に温かく迎えられ、再興の足がかりを得た。755年にセウタ近くのモロッコに達し、旧臣の援助を得てイベリア半島に勢力基盤を築いた。当時のアンダルスは、740年代のベルベル人の反乱の後、アラブ人内部の部族対立やアラブ人とベルベル人の対立で混乱しており、名目上の支配者はフィフル家のユースフであった。翌756年5月14日の戦いに勝利してコルドバに入り、アミールに即位した。

即位後、アッバース朝のカリフ・マンスールの調略を受けて起きた反乱を破り、指揮官の首を塩漬けにしてマンスールに送りつけたという。マンスールはこれを見て、恐ろしい敵を海で隔ててくれた神に感謝すると叫んだと伝えられ、この王子を「クライシュの鷹」と称した。国内では反抗的な勢力を徹底して弾圧したが、その反動で反対派の一部がフランク王国のカール1世に援軍を求めた。778年のサラゴサ攻めでフランク軍の侵攻を受け、ウマイヤ軍は一時危機に陥ったものの、フランク王国内でザクセン族が反乱を起こしたため、フランク軍は撤退した。この退却行での戦闘は、12世紀の武勲詩『ローランの歌』の題材となった。サラゴサの反抗勢力も後に鎮圧された。

その後は国内が安定に向かい、コルドバの大モスク(現在のメスキータ)の建設をはじめとする建設事業が進み、統治機構も整えられた。政務を担ったのは東方から移ってきたウマイヤ家の一族やマウラー(従属民)であった。彼はイスラーム世界全体に君臨する存在ではなかったため、カリフは称さず、アミールのままで統治した。これはアッバース朝カリフを認めたものではなく、複数のカリフの存在はイスラーム共同体の統一を損なうという考えに基づくもので、アブド・アッラフマーン3世までの歴代アミールがこの立場を受け継いだ。788年9月30日に没し、兄のスライマーン王子との競争に勝ったヒシャーム1世が後を継いだ。

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