伝記
マルカム3世は、ダンカン1世の子として1031年に生まれたとされ、1058年から1093年までスコットランドを治めた王である。後に「カンモー」と呼ばれ、大きな頭、あるいは大首領を意味すると解されている。弟はドナルドであった。母はノーサンブリア伯シューアドの親族とも、シューセンという女性ともされ、フォーティヴィオットの水車番の娘を母とする伝承もある。1040年に父がマクベスの軍との戦いで没すると、マルカムは安全のため国外へ逃れたとされる。イングランドで育ったという話が広く伝わる一方、オークニー、アイルランド、ストラスクライドも亡命先に挙げられ、亡命そのものを含めて確実ではない。
1054年、シューアドはスコットランドへ侵攻した。この際に擁立しようとしたマルカムを後のマルカム3世と同一視する説があるが、別人とする見解もある。1057年8月15日、マルカムはランファナンでマクベスを倒した。その継子ルーラッハが王位を継ぐと、1058年にこれも討ち、自ら王となった。即位の日付には異説がある。王国の範囲は現在のスコットランド全体とは異なり、多くの島々や北部にはスカンディナヴィア人の勢力があり、南方にも独立または半独立の地域があった。1059年には、オークニー伯トールフィンの未亡人イーンガボーグを妃としたとされる。二人の間には、後の王ダンカン2世らが生まれた。
最初の妃を失った後、1068年にイングランド王家のエドガーと姉マーガレットを受け入れた。一家はノルマン人の征服から逃れ、船が流されてスコットランドへ着いたと伝えられる。1069年または1070年、マルカムはダンファームリンでマーガレットと再婚し、二人の間には6男2女が生まれた。サクソンの王統を引く妃とともに封建制度を進め、宮廷の習慣をサクソン風に変えた。教会の行事や典礼についても、ケルト式からローマ式への改革を進めた。一方、エドガーの王位請求を掲げてイングランドへ繰り返し攻め込んだ。ウィリアム征服王の反撃を受けると、1072年にアバネシーで和約を結び、臣従を誓って息子ダンカンを人質として差し出した。
和約後も侵攻は続き、1093年11月13日、5度目のイングランド遠征中、戦闘によって命を落とした。マーガレットとの長男エドワードもこの遠征で受けた傷がもとで没した。王妃もまもなく亡くなった。スコットランドでは、サクソン風の政治に反発する貴族が弟ドナルドを擁立したが、イングランドにいたダンカンがウィリアム2世の援助でこれを倒し、王位に就いた。しかしダンカンも反対派に暗殺され、ドナルドが復位した。争いは1097年、マルカムとマーガレットの子エドガーがドナルドを廃するまで続いた。
王位にはエドガーに続いてアレグザンダー1世とデイヴィッド1世も王となった。娘イーディスはマティルダと名を改め、イングランド王ヘンリー1世の妃になった。マルカムの血統は13世紀後半までスコットランドの王位を担い、王妃マーガレットは13世紀に列聖された。後世、シェイクスピアの戯曲『マクベス』では、マクベスと王位を争う主要な登場者の一人となった。
同じ年に亡くなった人物
- ベルト・ド・オランド (1093年没)
- ロベール1世 (フランドル伯) (1093年没)
- コンスタンサ・デ・ボルゴーニャ (1093年没)
- ゾフィア (バル女伯) (1093年没)
- ユーグ1世 (ブルゴーニュ公) (1093年没)
同じ地域に関係する人物
- ジェームズ4世 (スコットランド王) (1513年没)
- Catharine Trotter (1749年没)
- エゼルレッド1世 (796年没)
- ピーター・スウィンナートン=ダイアー (2018年没)
- チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵) (1845年没)