伝記
顔真卿は、唐代の政治家であり書家である。字は清臣、本貫は琅邪郡臨沂県。中国史でも屈指の忠臣とされ、唐代随一の学者・芸術家としても知られる。顔氏は六朝時代以来、多くの学者を出した名家で、『顔氏家訓』の著者である顔之推の末裔にあたり、『漢書』注の著者である顔師古は一族の人である。『周礼』と『春秋左氏伝』を家学とし、節義で知られる人物や書に秀でた人物も多かった。顔之推は、書だけを得意とする人間ではなく、学芸と徳義を併せ持つ人間になることを求めたという。
顔真卿は景竜3年(709年)、顔昭甫の子である惟貞の第六男として生まれた。幼くして父を亡くし、母と伯母の真定の手で育てられた。開元22年(734年)、26歳で進士に及第し、その二年後に吏部の任用試験に合格して秘書省に任じられ、典籍の校訂を職務とした。天宝元年(742年)、34歳で文詞秀逸科に合格し、醴泉県の県尉、ついで長安県の県尉となって、出世の道を歩んだ。のちに監察御史となって地方の査察を命じられ、たびたび不正を弾劾した。殿中侍御史に昇ったが、吉温と対立し、その縁につながる権臣の楊国忠に疎まれて東都畿採訪使の次官に転出させられた。再び殿中侍御史となり、天宝9載(750年)には玄宗御製の書を下賜される栄誉を受けたが、楊国忠との確執は解けず、天宝12載(753年)、45歳で平原郡太守に出された。
平原に移ったのは、安禄山が反乱の意志を固めつつある頃だった。真卿は城壁の修理や濠の整備、食糧の準備をひそかに進めていた。天宝14載(755年)に安史の乱が起こると、常山郡太守だった族兄の顔杲卿とともに義兵を挙げ、これを知った玄宗は驚喜したという。翌年、常山郡は落城して顔杲卿は安禄山に惨殺された。真卿は清河郡の李㟧と結んで魏郡の安禄山軍を撤退させたが、史思明の攻撃で河北の戦局は不利となり、平原を捨てて粛宗のもとへ向かった。至徳2載(757年)に謁見がかない、刑部尚書・御史大夫として職務に当たり、粛宗の長安帰還にも従った。しかし直言をはばからないために再び煙たがられ、蒲州、饒州、昇州などの刺史として各地を転々とした。「祭姪文稿」や「争座位帖」はこのころの作である。大暦3年(768年)からは撫州刺史となり、道教ゆかりの「麻姑仙壇記」などを残し、大暦7年(772年)からは湖州刺史を務めた。
大暦12年(777年)、69歳で長安に戻って吏部尚書となり、朝廷の儀礼を整え、『礼儀集』を著した。だが宰相は真卿を極度に嫌い、反乱を起こした淮南西道節度使の李希烈を説得する特使に任じた。周囲は止めたが、皇帝の命であるとして応じ、赴いた先で李希烈に捕らえられた。李希烈は真卿を利用しようとしたものの、唐への忠誠は変わらなかった。蔡州の竜興寺に移され、「蔡州帖」を著したのち殺された。貞元元年(785年)8月3日、77歳であった。亡骸が長安に戻ると、徳宗は哀悼の意を表して朝会を取りやめた。
書では壮年期に張旭に筆法を学び、『張長史十二意筆法記』を残した。初唐以来流行した王羲之流の流麗な書法に反発し、蚕頭燕尾の楷法と「蔵鋒」の技法で力強さと穏やかさを兼ね備えた独特の楷書を築いた。これは「顔体」と呼ばれ、楷書の四大家の一人として後世に影響を与えたが、伝統を破るものでもあり、賞賛と批判が入り混じった。『多宝塔碑』『顔勤礼碑』『顔氏家廟碑』などの楷書碑があり、行書では『祭姪文稿』『争座位帖』が名高い。忠臣の模範として文天祥の正気歌や幕末日本の『靖献遺言』にも取り上げられ、顔法は書道教育の基本となった。2019年には東京で特別展が開かれた。
同じ年に亡くなった人物
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- マフディー (アッバース朝カリフ) (785年没)
- エデッサのテオフィロス (785年)
- 大伴家持 (785年没)
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