伝記
大伴家持は、奈良時代の公卿であり歌人である。大納言・大伴旅人の子で、官位は従三位・中納言に至った。三十六歌仙の一人に数えられ、小倉百人一首では中納言家持として知られる。『万葉集』の編纂に関わった歌人として語られることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父の安麻呂、父の旅人と同じく、律令制下の高級官吏として名を残した人物でもある。母は丹比郎女、妻は大伴宿奈麻呂の娘である大伴坂上大嬢で、子に永主がいる。
天平10年(738年)に内舎人として見え、天平12年(740年)には藤原広嗣の乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢行幸に従った。天平17年(745年)に従五位下に叙され、翌年3月に宮内少輔、6月21日に越中守となって地方官に転じた。越中では天平21年(749年)に従五位上に昇ったが、この赴任中に223首の和歌を詠み、『万葉集』巻十七から十九に残された歌から国司としての日々をたどることができる。天平勝宝3年(751年)に少納言となって帰京し、のちに兵部少輔、兵部大輔と、孝謙朝の後半は兵部省の次官を務めた。天平勝宝7歳(755年)には難波で防人の検校に関わり、この防人との出会いが『万葉集』の防人歌の収集につながったとされる。
天平宝字元年(757年)の橘奈良麻呂の乱では、越中で深く交流した大伴池主や大伴古麻呂、大伴古慈斐ら一族が処罰を受けたが、家持は謀反に加わらず罪を免れた。それでも乱の影響か、翌年に因幡守として再び地方に出され、天平宝字3年(759年)正月、因幡国府で詠んだ「新しき年の始の初春の今日降る雪のいや重け吉事」が『万葉集』の最後の歌となった。時に42歳であった。天平宝字6年(762年)に信部大輔として京官に戻ると、権勢をふるう太師・藤原仲麻呂に対し、藤原宿奈麻呂、石上宅嗣、佐伯今毛人とともに暗殺を計画した。しかし密告で露見し、翌年に四人は捕えられる。宿奈麻呂が単独の犯行だと主張したため家持は罪に問われなかったが、天平宝字8年(764年)正月に薩摩守へ左遷された。その後、神護景雲元年(767年)に大宰少弐となり、称徳朝には主に九州の地方官を務めた。
神護景雲4年(770年)9月に称徳天皇が崩御すると左中弁兼中務大輔の要職に就き、光仁天皇の即位に伴って21年ぶりに昇叙され、正五位下となった。光仁朝では式部大輔、左京大夫、衛門督などを歴任し、上総や伊勢の国守も務め、宝亀11年(780年)に参議となって公卿に列し、翌年には従三位に叙された。桓武朝に入った天応2年(782年)正月には氷上川継の乱への関与を疑われて解官されたが、4月には赦されて参議に復した。延暦2年(783年)には先任の参議であった藤原小黒麻呂と藤原家依を越えて中納言に昇り、皇太子・早良親王の春宮大夫も兼ねた。延暦3年(784年)には持節征東将軍となって蝦夷征討の責任者を務め、翌年4月には多賀・階上の両郡を正規の郡とするよう言上し許された。
延暦4年(785年)8月28日に薨去した。陸奥国に滞在中に没したとも、遙任のまま在京していたともいわれ、死没地は多賀城とも平城京ともされる。その直後に造営中の長岡京で藤原種継の暗殺事件が起こり、家持も関与したとされて、埋葬を許されず官籍から除名された。子の永主も隠岐への流罪となった。家持は没後20年以上を経た延暦25年(806年)に恩赦を受け、従三位に復している。『万葉集』には長歌・短歌あわせて473首が収められ、全体の1割を超える。勅撰和歌集にも60首が採られた。「賀陸奥国出金詔書歌」は、のちに「海ゆかば」の歌詞のもとになった。
同じ年に亡くなった人物
- 顔真卿 (785年没)
- ナーフィイ・マダニー (785年没)
- マフディー (アッバース朝カリフ) (785年没)
- エデッサのテオフィロス (785年)