伝記
代宗は、唐の第11代皇帝である。粛宗の長男で、諱は俶、のち豫と改めた。ポルトガル語の伝記では、726年11月11日に生まれ、779年6月10日に没したとされ、名を豫と改めたのは758年に皇太子に立てられたときだという。粛宗は長男として帝位を継いだ唐で最初の皇帝とされる。父がまだ玄宗のもとで忠王であったころに生まれ、生母は呉氏である。呉氏の実家は有力な貴族だったが、謀反の嫌疑で誅滅された。玄宗の孫は100人以上いたが、その最年長にあたり、740年に広平王に封ぜられた。この年に生母は亡くなっている。若いころは穏やかで従順、孝心にあつく、礼記と易経をよく学んだと伝えられ、祖父の玄宗に大いに愛された。玄宗は楊貴妃の姉である韓国夫人の娘、崔氏を妃として選んだ。ただし長男の李适(のちの徳宗)は、側室の沈氏から生まれた。
755年に安禄山が范陽で反乱を起こし、翌年夏には長安に迫って、玄宗は成都へ逃れた。馬嵬駅で兵士たちが楊国忠を殺し、楊貴妃を死なせたのち、土地の人々は玄宗に先へ進まないよう願った。このとき宦官の李輔国と、建寧王李倓、そして豫が、父の李亨(粛宗)に玄宗に従って成都へ行かないよう説いた。李亨はこれに従い、霊武で将兵に推されて皇帝を称した。粛宗は当初、李倓を総司令官にしようとしたが、顧問の李泌が、豫のほうが年長で後継者に混乱が生じると指摘したため、これを容れて豫を任命した。豫は兵馬大元帥となり、李泌とともに行在所の鍵を預かった。郭子儀らと協力し、回紇の援軍も得て、安慶緒に占拠されていた長安と洛陽を奪回した。しかし回紇を招き入れたことは、のちの外患の一因となった。また残党討伐のために河北三鎮などの節度使の助けを求めたことが、節度使の権力を増す結果になった。
758年、粛宗の皇后張氏と李輔国の手で皇太子に立てられ、762年に玄宗と粛宗が相次いで亡くなると即位した。ところが朝政は李輔国が握っていた。自ら政治を掌握しようとした代宗は宦官の程元振を抜擢し、謀反を理由に李輔国を誅殺した。だがこれは程元振が朝政を握っただけに終わり、次に重用された魚朝恩のときも同様だった。こうした内廷の粛清が、宦官の権力増大の原因といわれる。宰相の元載も朝政に力を持ったとされる。代宗は仏教に過度に帰依したともいわれる。
763年には、吐蕃の侵攻で長安が一時的に奪われ、章懐太子李賢の孫が帝位に据えられる事件が起きた。宦官が軍権を握り、武将の論功を抑えて武官を冷遇したため、辺境の防備が弱まった結果とされる。同年、安史の乱はようやく鎮圧されたが、田承嗣、李宝臣、梁崇義らは、形の上で皇帝に忠誠を誓うだけで、ほぼ独立国のように領地を治めた。のちの皇帝たちはこれを除くことも抑えることもできず、中央政府の力は次第に衰えていった。代宗は財政再建のため塩の専売化をはじめ様々な政策を実行したが、根本的な立て直しには至らなかった。779年(大暦14年)に54歳で崩御した。
子女は多く、長男の李适は第12代皇帝の徳宗となった。男子は少なくとも二十人が名を伝え、娘の昇平公主(斉国昭懿公主ともいう)は郭子儀の六男である郭曖に嫁ぎ、のちの懿安郭皇后の母となった。次男は昭靖太子(鄭王)の李邈である。側室には独孤貴妃(775年没)や沈氏、宇文氏らがいた。皇女も多く、華陽公主や玉虚公主ほか多数の名が伝わる。また2017年の中国の作品『麗王別姫』にも登場する。