HISTORICAL PERSON · 紀元前168年没

賈誼

前漢の政治家・思想家・文学家。22歳で博士に抜擢され文帝に重用されたが、讒言で長沙へ左遷された。秦を批判した『過秦論』などを収める『新書』や、賦『鵩鳥賦』を著し、諸侯の抑制を説く『治安策』を上奏した。

生涯
紀元前168年没
死亡地
金(陝西省 / 長安)
出生地
中華人民共和国(洛陽市)
出典
世界地図
金(陝西省)

伝記

賈誼は、前漢の政治家・思想家・文学者である。紀元前200年ごろ、河南郡雒陽県(洛陽)に生まれたとされ、生年を前201年とする説もある。後漢の賈逵や曹魏の賈詡は、その末裔にあたるという。若いころから『詩経』や『書経』を論じ、文章にすぐれていたため、郡内で評判になった。

当時の河南郡守であった呉公は、その才能を愛して賈誼を門下に招いた。呉公は秦の李斯と同郷で、学んだことがあるとされる人物で、政治の成績も上げていた。文帝が即位すると、呉公は廷尉に任命される。このとき呉公は、賈誼が年少ながら諸家の書に通じていることを上申し、賈誼は博士に抜擢された。22歳であった。博士の中では最も若かったが、詔令が下るたびに真っ先に意見を述べることができたので、その年のうちに太中大夫に昇進した。賈誼は儒学と五行説にもとづき、暦の正朔を改め、服の色を変え、法度を定め、礼楽を興すべきだと主張した。諸侯を領地に住まわせるべきだという提案もしている。

文帝は賈誼をさらに公卿に引き上げようとしたが、これを嫉んだ丞相の絳侯周勃、東陽侯張相如、馮敬らは、賈誼を若く学び始めたばかりなのに権力を独り占めしようとして物事を乱している、などと非難した。文帝は次第に賈誼の意見を求めなくなり、紀元前176年、賈誼は長沙王呉著の太傅として左遷された。任地へ向かう途中、かつて身を投じた屈原を弔って作った賦が『弔屈原賦』で、『文選』にも収められている。長沙在任中には、屋敷に鵩鳥という鳥が飛び込んでくる出来事があった。書物には、野鳥が部屋に入れば主人はその家を去ると記されており、賈誼は不吉に感じて『鵩鳥賦』を作った。そこには、生死や禍福にとらわれず、命を天に任せて自分の志を貫こうとする心境が述べられている。

三年余りの左遷ののち、文帝は賈誼を思い出して長安に召し、鬼神のことを尋ねた。その答えが帝の意にかない、賈誼は再び信任されて、文帝がもっとも愛した末子の梁懐王劉揖の太傅となった。このころ漢にとって諸侯王国は大きな脅威であり、匈奴も辺境を侵していた。賈誼はこうした問題に対策を上奏した。これが『治安策』と呼ばれるもので、強大な諸侯を抑えるべきこと、蛮夷を侮らず警戒すべきことなどが説かれている。また文帝に対しては、皇太子に官吏を監督し政務の要領を理解させるための統治の術を教えるよう勧めたともいわれ、それは申不害の行政手法に近いものだったかもしれないと考えられている。紀元前169年、梁懐王が落馬して亡くなった。賈誼は自分に責任があると考えて嘆き、翌紀元前168年に憂いのうちに世を去った。享年33であった。

政治思想の根は儒家の正統にあり、法家の呉公に好まれたため一時は法家に分類されたが、黄老思想の影響も指摘される。文章は議論と叙事が入り混じり、勢いがあって美しい名文として知られる。秦の滅亡の原因を論じた『過秦論』は著名で、これらの散文は『新書』にまとめられている。『漢書』の芸文志は、賈誼の著作として38編を挙げている。鬼神や死後の世界に関心が深かったことでも知られ、『弔屈原賦』は、およそ一世紀前に政治的に追放されて入水した屈原への、供物としてささげる文でもあった。『鵩鳥賦』と『弔屈原賦』は、初期の賦の代表作とされる。また、流罪となった後世の詩人たちは、道中の川に詩を投げ入れて屈原を弔う賈誼にならったという。

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