伝記
アルタカマは、紀元前324年ごろに名が見えるペルシアの貴族の女性で、のちのエジプト王プトレマイオス1世の二人目の妻とされる。アルタカマの表記のほか、アパマの名でも呼ばれる。名の意味は、字義どおりには「アルタ(真理の神的な秩序)の望み」とされる。
父はヘレスポントス・フリュギアの太守アルタバゾス2世で、アルタクセルクセス2世の孫にあたる。母は、ペルシアに仕えた将軍メムノンとメントルの姉妹であるロドス出身の女性だった可能性が高い。アルタバゾスにはディオドロスによれば息子11人と娘10人がいたが、すべてが同じ母の子だったとは限らない。きょうだいにはファルナバゾス、アリオバルザネスらの兄弟と、アパマ、アルトニス、バルシネの姉妹がおり、バルシネはのちにアレクサンドロス大王の愛人となった。紀元前358年、フリュギアなどの太守たちがアルタクセルクセス3世に反乱を起こしたが敗れ、アルタバゾスは家族とともに前353年末か前352年初めに逃れ、マケドニアのフィリッポス2世の宮廷に身を寄せた。このためアルタカマも子ども時代をマケドニアで過ごし、ギリシア語を理解し教育を受けたと推測されている。生まれたのは前355年から前345年のあいだとする説がある。のちにメントルがペルシアに復帰し、前342年に沿岸諸州の総司令官となって父の赦しを得ると、アルタバゾスはアジアに戻った。
紀元前333年のイッソスの戦いでペルシアが敗れたあと、アルタカマは母や兄弟イリオネウス、姉妹のバルシネ、アルトニスとともにダマスカスでマケドニア軍に捕らえられたと推定される。ペルシア貴族の家族は安全のためそこへ送られていた。前324年、アレクサンドロスは両民族の和解を象徴するため、スサでマケドニア人と貴族のペルシア女性の合同結婚式を催した。アルタカマはそこで、のちのプトレマイオス1世と結婚した。プトレマイオスはこのときアレクサンドロスの護衛官を務めていた。アレクサンドロスのかつての愛人バルシネの姉妹で、有力なペルシア貴族でマケドニア側に付いた人物の娘との結婚は、プトレマイオスにとって有利だったとされる。
プルタルコスは彼女をアパマと呼ぶが、史家はアッリアノスの記述を重んじる。アッリアノスがプトレマイオス自身の回想録を用いたからである。ただ、名前についてはいくつかの説明がある。結婚後にこの名を得たとする説、祖母にちなんで名付けられたとする説、プルタルコスの典拠が、セレウコスの妻アパマと取り違えたとする説、アパマが「末の子」を意味する愛称だったとする説などである。
前323年にアレクサンドロスが死ぬと、プトレマイオスはエジプトの統治を得て、土地の伝統を尊ぶ統治者として振る舞った。ペルシア人の妻は、エジプト人に昔の支配者を連想させたかもしれない。プトレマイオスは彼女を退けたともいわれ、父のもとに帰したとも、エジプトの宮殿に住まわせたとも推測される。いずれにしても彼女のその後は分からず、プトレマイオスは前321年か前320年に、アンティパトロスの娘エウリュディケと政略結婚をした。二人のあいだに子は知られていない。同じくスサで妻を得たセレウコスは、妻アパマと終生を共にし、アパマはセレウコス朝の祖となった。これと対照的に、プトレマイオスは用が済むと早々にアルタカマを手放したと評する研究者もいる。
同じ年に亡くなった人物
- Ariamnes (紀元前400)
- Lastheneia of Mantinea (紀元前400)
- ティリバゾス (紀元前400)
- Helena of Egypt (紀元前400)
- クテシアス (紀元前 400年(推定))
同じ地域に関係する人物
- アレクサンドリアのメナス (309年没)
- アルキビアデス (紀元前404年没)
- アンティゴノス1世 (紀元前301年没)
- ゴルディアヌス1世 (238年没)