伝記
ゴルディアヌス1世は、ローマ帝国の軍人皇帝時代に、238年の「六皇帝の年」に登場した皇帝である。氏名はマルクス・アントニウス・ゴルディアヌス・センプロニアヌス・ロマヌスといい、アフリカヌスの添え名を名乗った。生年は158年か159年ごろ、没年は238年4月とされ、息子のゴルディアヌス2世とともに帝位に就いたが、皇帝マクシミヌス・トラクスに対する反乱に巻き込まれて敗れ、自ら命を絶った。
若いころや出自はあまり知られていない。名のゴルディアヌスからは、家系がアナトリア地方の出身だったと推測されている。目立たないが非常に富裕な騎士階級の家に生まれ、元老院議員にまで出世したという。『ローマ皇帝群像』は、妻をアントニヌス・ピウス帝の曽孫と記し、一家を五賢帝の系譜に結び付けているが、この書は信憑性が大いに疑わしいとされ、現代の歴史家は名前や記述を偽りとして退けている。妻は238年より前に亡くなり、二人のあいだには、ゴルディアヌス2世となる同名の息子のほか、のちのゴルディアヌス3世の母となる娘がいた。
政治の経歴は、かなり年をとってから始まった。若いころは修辞学と文学の研究に携わったと推測される。軍人としては、シリアに駐屯していた第4スキュティカ軍団を率い、216年にはブリタンニアの総督となり、ヘリオガバルスの時代に補充執政官を務めた。ブリタンニアに残る彼の名を刻んだ碑文が一部削られていることから、皇帝の不興を買った可能性も指摘されている。軍人としての名声があったが、慎重で野心から離れた暮らしぶりのため、カラカラ帝の疑いを受けなかった。カラカラをたたえる叙事詩『アントニアス』も著している。混乱するセウェルス朝の中で、富と政治的影響力を保ち続けたことは、陰謀を嫌う性格を示すと見られている。
皇帝アレクサンデル・セウェルスの治世、すでに80歳近かった彼は、栄誉があるが危険に満ちたアフリカ総督の座を引き受けた。ところが任期の途中、マクシミヌス・トラクスが下ゲルマニアでアレクサンデルを殺して即位した。強権的な統治は元老院との対立や民衆の離反を招き、不満は238年、アフリカ属州での反乱となって噴き出した。人々に押されたゴルディアヌスは、3月22日に皇帝を宣言してアフリカヌスの添え名を名乗り、高齢を理由に息子を共同皇帝とするよう主張した。カルタゴでは民衆と指導層に歓呼で迎えられ、ローマでもマクシミヌス派の親衛隊長が暗殺され、元老院は彼を新皇帝と認め、ほとんどの属州が味方についたと伝えられる。
しかし、マクシミヌスに忠実なヌミディア総督カペリアヌスが、軍団を率いてアフリカへ侵攻した。ゴルディアヌス父子は戦いに敗れ、息子は戦場で殺され、父は息子の死を聞いて自殺した。治世は36日とも22日ともいわれる。ゴルディアヌス1世は愛される性格の持ち主として評価が高く、父子ともに文学を愛して多くの著述をなしたと伝えられるが、有能な政治家というより知的な楽しみにふける趣味人であったともされる。父子の死後、元老院はプピエヌスとバルビヌスを共同皇帝に、孫のゴルディアヌス3世を副帝に任じて抵抗を続けた。マクシミヌスは部下の反乱で殺され、二人の皇帝も内紛で殺されて、最後はゴルディアヌス3世が唯一の皇帝となった。
同じ年に亡くなった人物
- マルクス・クロディウス・プピエヌス・マクシムス (238年没)
- ガイウス・ユリウス・ウェルス・マクシムス (238年没)
- マクシミヌス・トラクス (238年没)
- デキムス・カエリウス・カルウィヌス・バルビヌス (238年没)
- ゴルディアヌス2世 (238年没)
同じ地域に関係する人物
- アンティゴノス1世 (紀元前301年没)
- アレクサンドリアのメナス (309年没)
- Artakama (紀元前400)
- アルキビアデス (紀元前404年没)