伝記
ピュティアスは、アリストテレスの最初の妻である。大ピュティアスとも呼ばれる。小アジア沿岸、レスボス島の対岸にあるアッソスとアタルネウスを治めたヘルミアスの養女で、紀元前355年ごろに活動していたとされる。ヘルミアスはペルシアの敵であり、マケドニアと同盟していた。生年は分かっておらず、没したのはアテナイで、前330年より後とも、前326年の少しあととも、前338年ともいわれる。ヘルミアスとの血縁については、伝えが食い違っている。ペリパトス派の哲学者でメッセネのアリストクレスは、ピュティアスがヘルミアスの養女であり妹でもあったという中傷からアリストテレスを弁護した。ディオゲネス・ラエルティオスは、マグネシアのデメトリオスの書を引いて、姪あるいは娘だと記す。ストラボンはヘルミアスの兄弟の娘とする。年代の点から、妹だった可能性は低いとみられる。
結婚の時期と動機についても説は分かれる。デメトリオスとストラボンによれば、ヘルミアス自身がピュティアスを花嫁としてアリストテレスに与えた。それが正しければ、結婚はアリストテレスがアッソスに滞在した前347年から前345年か前344年のころになる。これに対しアリストクレスは、ペルシア王アルタクセルクセス3世の命で、ヘルミアスが策略によって捕らえられ処刑されたあとに結婚したと述べる。アリストテレスの敵は、岳父に取り入るための結婚だとほのめかしたが、アリストクレスは、没落した一族と結ぶことに何の利益もなかったはずだと弁護する。アリストテレスはアンティパトロスにあてた手紙で、処刑されたヘルミアスとの友情を結婚の理由に挙げ、その死後ピュティアスが不幸な境遇に置かれたと述べたという。この手紙が本物かどうかは研究者のあいだで争われているが、結婚について悪意ある噂が流れたことだけは確かである。別の記述では、前341年ごろにアリストテレスがヘルミアスの姪で養女のピュティアスと結婚したとされ、彼女はペラに避難していたという。
二人のあいだには、同名の娘、小ピュティアスが生まれた。息子ニコマコスの母がピュティアスかどうかは確実でない。ディオゲネス・ラエルティオスはティマイオスを引いて、ピュティアスの死後にアリストテレスの伴侶となったヘルピュリスが母だとし、アテナイオスもヘルミッポスを引いて同じことを述べる。ヘルピュリスは第二の妻になったとまで言われるが、信憑性は疑わしい。より信頼できるのはアリストテレスの遺言で、その内容から、ニコマコスの母はピュティアスだったと間接的に推測できる。遺言で手厚く配慮されたヘルピュリスは、スタゲイラ出身のアリストテレスの親族で、家に同居していたため、敵の噂の種になったのかもしれない。
アリストテレスは、ピュティアスに深い愛着を持ち続けた。遺言には、自分が葬られる場所に妻ピュティアスの骨を移して納めよ、と記した。彼女の遺志にもよるという。この文面から、遺言が書かれたときピュティアスはすでに亡くなっていたことが分かる。
娘の小ピュティアスは三度結婚したが、父より先に亡くなったともいわれる。最初の夫はアリストテレスの姉妹アリムネステの子ニカノルで、遺言によれば、ニコマコスが成人するまで家の事務を預かることになっていた。二番目の夫はスパルタのプロクレス、三番目は医師メトロドロスで、二人のあいだにはアリストテレスという名の息子が生まれたと伝えられる。
同じ年に亡くなった人物
- Axiothea of Phlius (紀元前400)
- ソポクレス (紀元前400年代没)
- ティマレテー (紀元前400)
- エウリピデス (紀元前400年代没)
- Dinon (紀元前400)
同じ地域に関係する人物
- スピリドン・トリクピス (1873年没)
- クリュシッポス (紀元前200年代没)
- アリストパネス (紀元前385年没)
- Emmanuil Xanthos (1852年没)
- Jimmy Makulis (2007年没)